宮崎県宮崎市 島津家久及び島津豊久墓所

佐土原城の南西にある天昌寺跡へ。
島津家久及び島津豊久の墓所を訪問。
佐土原領は家久、豊久の領地だった地で、
天昌寺はその菩提寺でしたが、
廃寺となって墓所のみが残されています。


梅天長策公大禅伯(家久:左)」、
天岑昌運大居士(豊久:左中)」、
蘭香永春大姉(家久室:右中)」
縁室如従大姉(家久母:右)」。
家久は島津宗家15代島津貴久の四男で、
島津四兄弟(義久,義弘,歳久,家久)の末弟。
沖田畷の戦い戸次川の戦い等で活躍し、
軍略や戦術に長けた武将でしたが、
41歳で急死しています。
豊久は家久の子でしたが、
家久急死後は家久の跡を継ぎ、
伯父島津義弘に可愛がられたという。
朝鮮出兵庄内の乱で戦功を挙げ、
関ケ原の戦いでは義弘と共に参加し、
西軍敗北後の撤退戦で殿軍を務め、
壮絶な戦死を遂げました。
島津の退き口
佐土原領は幕府領となりましたが、
後に島津以久に与えられて佐土原藩となり、
天昌寺は以久が入封以後も存続し、
佐土原藩の庇護を受けました。
豊久の旧臣達は佐土原を離れて永吉に移住。
後に再興が許されて永吉島津家となり、
家久、豊久が初、2代の扱いとなり、
永吉にも天昌寺が建てられましたが、
同じく廃寺となっています。


関ヶ原や庄内の乱で戦死した家臣の墓。
島津家には捨て奸という戦法があり、
撤退の際に小隊を殿として留まらせ、
その全員が死ぬまで戦わせて、
全滅すれば新たに小隊を留まらせ、
更に全員が死ぬまで戦わせる。
そうして時間稼ぎをする事で、
本隊を無事に退却させる戦法。
まさにトカゲの尻尾切りの作戦でした。
豊久はこの戦法で大将島津義弘を逃がし、
自らは多くの部下と共に戦死しています。

幕末には薩摩の立ち撃ち、
長州の寝撃ちと云われますが、
立ち撃ちの方が敵の弾に当たりやすいし、
兵士にも相当な度胸がいる。
死ぬことを恐れていては出来ない撃ち方で、
捨てがまりに通じるものがありました。
戦国時代九州地方の戦いは、
中央に比べて戦死者が極端に多く、
大将の戦死も各段に多いし、
篭城で将兵共に全滅というケースもある。
これは九州人の気質なのでしょうか?

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