長崎県長崎市 興福寺/長崎聖堂

興福寺境内に移築された長崎聖堂の建物。

長崎聖堂は本草学者の向井元升が、
正保4年(1647)に創建した学舎孔子廟で、
始め立山書院と称したこの学舎では、
元升自らが儒学を講じていたという。
その後に元升が京都に行ってしまい、
また寛文3年(1663)の大火に遭った事で、
一時衰退してしまいますが、
長崎奉行牛込忠左衛門がこれを再興。
儒者南部草寿を招いて教授させました。
草寿が仕官で退いた後は、
元升の三男向井元成がこれを継ぎ、
以降は祭主を向井家が世襲。
宝永7年(1710)に伊勢町に移転し、
正式に長崎聖堂と称しましたが、
中島川沿いにあった為に、
一般には中島聖堂と呼ばれています。
以降は唐人の請願によって拝礼が行われ、
来航唐人の参詣が慣例化。
幕府から資金も支給されました。
しかし維新後にこれらは廃れ、
杏檀門と縮少した大成殿のみが残り、
昭和34年(1959)に保存を目的とし、
興福寺境内に移されています。

これら遺構は境内西端にあります。

中島聖堂遺構大学門(杏檀門)」。
門扉に大学の章句を刻んでいる為、
大学門と呼ばれていたという。


大成殿」。
長崎聖堂のあった大成殿で、
往時より規模が縮小されているという。
大成殿とは孔子を祀る正殿の事で、
内部の中央に孔子像を安置し、
その周囲に高弟らの像を配置したもの。
内部を覗くと孔子らの位牌がありました。

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