徳川幕府はキリスト教禁止政策を進め、
布教に密接な関係のあったポルトガルや、
スペインの来航を禁止。
唯一来航の許されたオランダに対しても、
出島以外での活動を禁止しています。
幕府は清国との交易も長崎に限定しますが、
キリスト教徒ではない唐人らには、
市内で雑居することが許されました。
当時の清国では遷界令が発布され、
日本との貿易は少数であったようですが、
後にこれが撤廃されると清国船が多数来航。
この為に密貿易も増加するようになった為、
幕府は唐人の居住も制限する事として、
堀と塀で囲まれた唐人屋敷が建設されます。
長崎市街南部周辺。
赤く塗った場所が唐人屋敷の敷地。
唐人屋敷は9400坪の敷地があり、
2000人程が居住する事が出来たという。
周囲は堀と塀で囲まれており、
海側の大門から出入りが行われ、
取締りの番所が設けられていたようです。
「象徴門(大門)」。
大門のあった場所に再現された象徴門。
唐人屋敷跡を観光客にアピールする目的で、
中華風にして建てられたという。
大門をくぐると坂となっています。
長崎自体が坂の街ではありますが、
多分に漏れず唐人屋敷も坂の街でした。
唐人屋敷は維新後に廃止されており、
明治4年には火災で多くの建物が焼失。
更に原爆の被害にも遭っている為、
その広さに比べて遺構が少ないようです。
「土人堂」。
土神を祀ったお堂。
土神とは民間信仰の土を司る神の事で、
ここに祀られているのは福徳正神像。
土地や家を守る豊作の神様とのこと。
元禄4年(1691)に建立されていますが、
数度の焼失毎に建て直されたようで、
唐人屋敷の廃止後もあったようですが、
原爆によって破壊されており、
現在のものは昭和52年の再建です。
「福建会館(天后堂)」。
明治30年改築の福建会館。
福建省出身者の会議所だったようで、
元は明治元年に建てられたもので、
八閩会館と呼ばれていたようです。
その後の改築の際に福建会館と改称。
写真の建物は福建会館内の天后堂で、
媽祖を祀っていた建物でした。
メインの会議所は原爆で破壊され、
現存するのはこの天后堂と正門のみ。
「天后堂」。
こちらも媽祖を祀る天后堂。
元文元年(1736)に南京出身者が建立し、
航海の安全を祈願しました。
海上守護の女神とされており、
天妃、天后聖母、老媽、菩薩とも呼ばれ、
唐船で海を渡って来る華僑達には、
特に重要視されていたようです。
「観音堂」。
観世音菩薩と関帝が祀られた観音堂。
元文2年(1737)の創建とされますが、
定かな事はわかっていないようです。
現在の建物は大正6年に改築されたもの。
観世音菩薩は日本でもお馴染みですが、
関帝もある意味では日本でお馴染み。
三国志で知られる関羽雲長は、
その死後に神格化されたようで、
何故か商売繁盛の神として祀られ、
現在も中国で最も信仰されているという。
出島では厳重な監視が行われましたが、
唐人屋敷の監視は比較的緩やかで、
出入りも自由であったようです。
彼らの菩提寺である三福寺が、
※興福寺、福済寺、 崇福寺の唐寺。
唐人屋敷の外にあったことや、
非キリスト教徒だったのが理由でしょう。
嘉永3年9月9日。
吉田松陰もこの唐人屋敷を訪問し、
上記の諸堂を見学しました。
元禄11年(1698)の大火により、
水揚げされた唐船の荷蔵が焼失。
この事から唐船専用の倉庫を建てる為、
唐人屋敷前の海が埋め立てられます。
この埋立地は新地と呼ばれたようで、
唐人の目の届く位置に倉庫が建てられ、
積荷の集積地となっていました。
維新後に唐人屋敷が廃止されると、
唐人達は坂道の唐人屋敷から、
平地の新地に集まるようになり、
これが長崎新地中華街となっています。
■関連記事■
・長崎県長崎市 興福寺
唐人の菩提寺である三福寺のひとつ。
・長崎県長崎市 崇福寺
唐人の菩提寺である三福寺のひとつ。