福岡県築上郡 天仲寺跡/小笠原家墓所

天仲寺天仲寺山にあった禅寺で、
現在は廃寺となって建物は解体され、
跡地は天仲寺山公園となっています。


天仲寺山 案内図」。
天仲寺山は標高28mの小山で、
元々は広津山と呼ばれていました。
中津藩初代藩主小笠原長次は、
安志小笠原家初代当主。
臨終の際に遺言として、
甲冑を着用させて太刀を帯し、
 手に払手を持たせて広津山に埋めよ
」。
と家臣らに申し渡しました。
これに従い広津山に長次は埋葬。
立派な廟所が造営されており、
家臣らの寄進で石灯籠が並べられ、
その数は13回忌までに101基となり、
非常に立派な廟所となったという。
菩提寺の法性寺も建てられましたが、
後に中津藩小笠原家は無嫡改易
間もなく再興されていますが、
安志1万石に転封となっており、
小笠原家は中津を離れています。


天仲寺跡」。
小笠原家の転封の際に法性寺も移転。
その際に中津に残った僧らが、
天仲寺を建てて墓所を守り、
遠く離れた安志藩に庇護されつつ、
江戸期を通じて法要を行い、
廟所に香花を供えていたという。
近年無住が続いて廃寺となり、
跡地には花壇等が造られています。


往時の廟所の図。
天仲寺は明治維新後に資金が困窮し、
寺の某僧は廟所の石灯籠や、
敷石手水鉢石段の石を売却。
更に墓の副葬品も暴こうとしており、
これは人夫が病気になった為、
祟りを恐れて中止されていますが、
この為に廟所は長らく荒廃しており、
昭和49年になって公園整備された際、
廟所の修復がされたという。
その際に長次の墓の発掘調査が行われ、
地下1mの場所に石棺が発見されて、
中にミイラ化した鎧兜の長次がいたという。
更に周辺に点在する石灯籠の調査が進み、
その所有者らにその由来を説明した結果、
二基の石灯籠が寄贈されるに至っています。


長松寺殿慈源恵公大居士」。
安志小笠原家初代当主、
中津藩初代藩主小笠原長次の墓。
小笠原宗家の継嗣小笠原忠脩は、
父の小笠原秀政大坂夏の陣に出陣する際、
松本城の守備を任されていましたが、
命に背いて幕府に無断で参陣。
徳川家康外曾孫であった事もあり、
咎めを受けることなく秀政と合流しますが、
天王寺 岡山の戦いで共に討死しています。
長次は忠脩の長男に生まれますが、
その誕生は父の死後であった為、
宗家の家督は忠脩の弟小笠原忠真が相続。
長次は忠真に育てられました。
後に龍野藩6万石を与えられており、
※前藩主本田忠刻は無嫡断絶。
 その妻で叔母にあたる千姫より、
 化粧料から1万石を与えられ、
 計6万石となった。

更に2万石を加増されて中津藩に転封。
新田開発等を行うなど藩政に尽くした他、
島原の乱にも参加しています。
入封から34年間中津藩主として過ごし、
寛文6年(1666)に死去しました。

跡を継いだ次男の小笠原長勝は、
父と違い藩政を顧みることはなく、
贅沢を重ねて重税で民衆を苦しめ、
飢饉で餓死者が出ても救済する事をせず、
幕府より処罰を受けています。
それでも改まることはなかったようで、
病気で死ぬまで悪政を続けたという。
3代小笠原長胤は長勝の悪政を正し、
大規模な治水工事等を行っていますが、
次第に悪政を行うようになったようで、
咎める譜代家臣を追放したり、
重税を課して贅沢をするようになります。
この先代よりの悪政に幕府も黙ってはおられず、
元禄11年(1698)に悪政と乱行を理由に改易。
長胤は小倉藩の小笠原宗家預りとなり、
宝永6年(1709)に小倉で死去しました。

改易となった中津藩小笠原家ですが、
討死した忠脩や初代長次の功積が鑑みられ、
長次の長男小笠原長章の五男小笠原長円が、
4万石の減封のうえで相続しています。

真浄院殿義英宗高大居士」。
安志小笠原家4代当主、
中津藩4代藩主小笠原長円の墓。
幕府の配慮で藩主となった長円でしたが、
彼も有能な藩主ではなかったようで、
同じく重税で領民を苦しめています。
更に後に藩政を顧みなくなったようで、
別邸を建てて酒と女に溺れたという。
ここまで悪政が続くと何かの呪いか?と、
考えたくもなってきますが、
当時の中津藩財政が相当酷いもので、
立て直そうとはしたものの無理ゲーで、
再建は無理と諦めてどうでも良くなったのか?
とにかく奢侈な生活で体を壊した為、
正徳3年(1713)に38歳の若さで病死しました。

天仲寺山にある藩主は以上の二人。
他に2つの墓があります。

淨徳院殿自覺観大居士」。
2代長勝の長男小笠原長美の墓。
父長勝は兄長章の長男小笠原長胤を、
四女於満の婿として迎えて養嫡子とした為、
長男ながら家督を継ぐ事は出来ず、
中津城で部屋住みとして過ごしています。
後に5代藩主となった長邕が6歳で病死し、
無嫡改易となって中津藩は廃藩した為、
宗家の小倉藩領築城郡八田村に移住。
享保2年(1717)に同地で死去していますが、
所縁ある天仲寺に葬られました。


もうひとつある五輪塔。
こちらは誰のものかは不明です。

上記したように5代長邕は早逝した為、
無嫡改易となってしまいましたが、
先祖の功績を考慮した幕府の配慮により、
長邕の弟小笠原長興の相続が許され、
安志藩1万石として再興します。
その後の藩主は贅沢する者はおらず、
小藩ながら安志藩は廃藩置県まで存続。
一方の中津藩は奥平家が入封して9代続き、
比較的安定した藩経営が続けられました。

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