細川忠興の嫡男だった長岡忠隆は、
前田利家の七女千世姫を正室としますが、
石田三成が細川ガラシャを人質とする為、
大坂玉造の細川屋敷を包囲した際、
千世姫は姉の豪姫の指図で前田屋敷に避難。
ガラシャは家臣に自らを殺させて、
屋敷を火薬で爆破させていますが、
千世姫が義母を置いて逃げた事が発覚し、
忠興は激怒して忠隆に離縁を命じます。
しかし忠隆はこれに応じようとせず、
千世姫を庇った為に忠興は忠隆を廃嫡。
廃嫡された忠隆は剃髪して休無と号し、
京都で蟄居しました。
千世姫も忠隆と共に暮らしていましたが、
後に前田家に戻って再婚。
父忠興との和解は25年後の事で、
忠興より勘当を解かれた後も、
京都で生活する事を望んでいた為、
6万石の分与も断って京都で没します。
後に熊本藩2代藩主細川光尚は、
忠隆の遺児長岡忠恒、長岡忠春を招き、
藩主一門家の家格を与えました。
これが細川(長岡)内膳家となります。
「細川左京(内膳)家墓所」。
2代当主忠春はこの地の千原御茶屋を設置。
天満宮を勧請して守護神としたという。
また菩提寺の瑞巖寺を移転させており、
ここが歴代墓所となっていますが、
瑞巖寺は廃仏毀釈で廃寺となっています。
「細川忠隆夫妻の墓(御廟)」。
初代当主細川忠隆と継室喜久の廟。
内部に2人の五輪塔があります。
忠隆の墓所は京都大徳寺の高桐院ですが、
後にここに分骨されています。
継室の喜久は2人の息子と共に熊本に入り、
没後に見性寺に葬られましたが、
後にここに改葬されています。
忠隆は細川姓は名乗っておらず、
最後まで長岡姓であったようで、
江戸期の当主も長岡を名乗っており、
細川姓を名乗ったのは維新後でした。
「大淨院殿〇渓義水大居士」。
2代当主長岡忠春の墓。
忠隆の遺児のひとりで三男でしたが、
彼が家督を相続したようです。
家臣最高位の一門一座の家格を得ました。
「松雲院殿春叟友山大居士」。
2代当主(?)長岡忠恒の墓。
忠隆の遺児のひとりで次男でしたが、
標示ではこちらも2代となっています。
詳しい事はわかりませんが、
隠居して友山と号したようです。
「濱巖院殿休軒〇〇〇〇大居士」。
3代当主長岡忠重の墓。
2代忠春の嫡男。
「瑞僊院殿商隠義皓大居士」。
4代当主長岡忠英の墓。
3代忠重の嫡男。
藩校時習館の初代総教。
「袛林院殿徳翁休隠大居士」。
5代当主長岡忠昌の墓。
4代忠英の嫡男。
「天眞院殿道徹静香齋大居士」。
6代当主中岡忠虎の墓。
5代忠昌の嫡男。
「養珠院殿美徳遊山日仁大居士(右)」、
「貞操院殿榮壽妙性日慈大姉(左)」。
7代当主長岡忠寿の墓と、
忠寿正室久姫の墓。
6代忠虎の嫡男。
「華光院殿勸奨休焉日閑大居士」。
8代当主細川忠顕の墓。
6代忠虎の次男で幕末期の当主。
朝廷との交渉や戊辰戦争で活躍し、
西南戦争でも功積があったようです。
明治4年に細川姓に復しました。
「正五位男爵細川忠穀之墓」。
9代当主細川忠穀の墓。
7代忠寿の次男。
男爵を叙爵されています。
「唯信院殿法性忠雄日義大居士」。
10代当主細川忠雄の墓。
9代忠穀の嫡男。
維新後の細川内膳家は士族となりますが、
元藩主細川護久侯爵が華族編列を請願。
しかし再三の申請も虚しく却下され続け、
明治33年にようやく男爵となっています。
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