熊本県熊本市 妙解寺跡/熊本藩細川家墓所②

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つづき。

※以下墓碑銘が読めないものが多く、
 標柱の銘を参照しています。


細川家第五代 綱利の墓」。
5代当主(熊本藩3代)細川綱利の墓。
2代藩主細川光尚の長男として生まれ、
7歳で父の死去により家督を相続。
元服まで幕府目付と親戚小笠原忠真が、
藩政を監督する事となっています。
62年の長期間藩主に君臨し、
弟の細川利重新田藩を立藩させ、
水前寺成趣園を整備拡大。
相撲の吉田司家を庇護した他、
赤穂事件で浪士らを預かりました。
隠居の2年後に72歳で死去。
傍らには愛用の力石が置いてあり、
この長円形の石を使用して、
日頃から体を鍛えていたという。
また財政難を招いた藩主として知られ、
浪費で大きな債務を残しています。


細川家第六代 宣紀の墓」。
6代当主(熊本藩4代)細川宣紀の墓。
何故か灯籠が墓碑となっています。
新田藩主細川利重の次男に生まれ、
3代藩主綱利の養嗣子となり、
養父の隠居後に伴い家督を相続。
先代の浪費で財政難だった事に加え、
飢饉水害で治世は多難を極め、
更に幕府の手伝普請も重なりました。
20年の治世の後に死去。


細川家第七代 細川宗孝の墓」。
7代当主(熊本藩5代)細川宗孝の墓。
4代藩主宣紀の四男に生まれますが、
兄らの夭折により嫡男となります。
父の死去に伴い家督を相続し、
財政難の熊本藩の藩主に就任。
その12年後の江戸城月例拝賀式で、
乱心した旗本板倉勝該に斬り付けられ、
そのまま即死しています。
宗孝は継嗣を建てていなかった為、
無嫡改易の危機となりますが、
居合わせた仙台藩6代伊達宗村は、
細川家の家臣らに向かい、
まだ息があるから屋敷に運び、
 早く手当せよ
」と助言。
これを聞いた家臣らは、
即死した宗孝を藩邸に運び出し、
弟の細川重賢を末期養子として届け、
翌日に宗孝が死亡したとしています。


細川家第八代 重賢の墓」。
8代当主(熊本藩6代)細川重賢の墓。
4代藩主宣紀の五男に生まれ、
5代藩主は兄の宗孝となりますが、
宗孝は勘違いで殺害されてしまい、
急遽6代藩主となっています。
藩主となると財政改革を断行し、
堀平太左衛門蒲池崑山を登用。
殖産興業の推進、質素倹約の奨励、
新興商人からの借財等、
次々と改革を断行しました。
宝暦の改革
また藩校時習館や医学校再春館を設立。
人材育成にも力を入れています。
重賢は薩摩藩島津重豪や、
久保田藩佐竹義敦らと共に、
蘭癖大名と称されてた他、
紀州の麒麟こと徳川治貞と共に、
肥後の鳳凰と賞された名君でした。

7代藩主細川治年の正室埴姫や、
10代藩主の子照吉の墓域もありますが、
これは割愛します。


第九代細川治年公の墓」。
9代当主(熊本藩7代)細川治年の墓。
6代藩主重賢の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
父の改革を引き継ぎましたが、
僅か2年で死去しています。

10、11代の墓所は泰勝寺跡。


細川家第十二代 細川斉護の墓(右)」、
細川家第十二代 細川斉護室益の墓(左)」。
12代当主(熊本藩10代)細川治年の墓と、
その正室益姫の墓。
宇土藩7代細川立之の長男に生まれ、
父に死去に伴い宇土藩主となりますが、
熊本藩9代細川斉樹の養嫡子となり、
その死去に伴い家督を相続。
幕末期の熊本藩は改革派の実学党と、
守旧派の学校党が対立しており、
更に幕府より湾岸警備を命じられ、
その収拾に苦慮したという。
桜田門外の変では水戸浪士4名が、
斉護宛に趣意書を提出していますが、
これを取り上げる事はせず、
全員他家に預け替えさせました。
これは熊本藩が安政の大獄では、
藩主以下も処罰されなかった事や、
過去に藩主が殺された経験から、
対応しなかったとされています。
その最中の万延元年に死去し、
次男の細川慶順が跡を継ぎました。

以後の藩主墓所は泰勝寺跡にあります。

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