熊本県熊本市 妙解寺跡/熊本藩細川家墓所①

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熊本藩細川家の墓所は2ヶ所。
ひとつは横手(上北岡)の妙解寺跡にあり、
もうひとつは黒髪(立田)の泰勝寺跡です。
今回訪問する妙解寺跡はそのひとつで、
2代藩主(細川家4代)細川光尚が、
父で初代藩主の細川忠利の追善の為、
寛永18年(1641)に建立されました。


妙解寺跡」。
妙解寺は維新後に廃寺となっており、
跡地は北岡自然公園として整備され、
国指定史跡となっています。


境内跡」。
伽羅はその全てが廃されていますが、
その境内は非常に広く大規模。
訪問時は残念ながら雨でしたが、
天気が良ければ散歩も良いかもです。


細川家御廟所」。
熊本藩細川家の墓所。
境内奥には長い石段があり、
これを登ると墓所に至ります。


細川家第三代細川忠利公御廟(左)」、
細川家第三代細川忠利公室保寿院御廟(右)」。
3代当主(熊本藩初代)細川忠利の御廟と、
忠利の正室千代姫の御廟。
※墓所では初代当主を細川藤孝としており、
 wikipedia等とは代が異なります。

忠利は2代当主細川忠興の三男で、
忠興正室細川ガラシャの子。
忠利は江戸に証人として出され、
ガラシャの死の際は徳川秀忠に近習。
関ケ原の戦いには参加していませんが、
父忠興が大いに活躍しており、
細川家は39万石の大名に成長します。
同時期には長兄細川忠隆が廃嫡され、
継嗣が定められぬ状態が続きますが、
徳川家に近い忠利が選ばれて、
徳川家康の曾孫千代姫を正室に迎え、
忠興の隠居に伴い家督を相続。
寛永9年(1632)には加藤家の改易後に、
熊本藩54万石に加増転封となり、
寛永14年(1637)には島原の乱に出陣。
寛永18年(1641)に死去しています。


阿部弥市右衛門の墓」。
阿部弥市右衛門は忠利に仕え、
忠利が病気を得て病状が悪くなると、
殉死を願い出たとされますが、
新藩主に仕える事を命じられます。
しかし命を惜しんだと揶揄された為、
許しを得ぬままに切腹。
しかしこれが問題となってしまい、
遺族は家格を落とす事となります。
これに弥市右衛門の長男権兵衛は、
忠利の法要の際に髷を切って講義。
この非礼が咎められてしまい、
権兵衛は盗賊同様に縛り首されました。
残った次男弥五兵衛等阿部一族は、
もはやここまでと屋敷に立て籠もり、
藩の討手と死闘を繰り広げ、
一族諸共に全滅しました。
これは森鴎外著の[阿部一族]の物語で、
事実を元にした小説のようで、
長男権兵衛が髷を切って投獄され、
後に縛り首となった事や、
阿部一族が死闘の末に全滅した事は、
大まかには事実の様ですが、
弥市右衛門は普通に殉死したようで、
権兵衛が抗議を行った理由は、
2代藩主光尚を批判したものとのこと。


細川忠利公ゆかりの鶴の碑」。
忠利が死去した際に、
飼っていたも放鳥されますが、
忠利の三回忌が行われた際、
戻ってきて妙解寺に住み付いたようで、
そのまま寺で生涯を終えたという。
その鶴を憐れみ碑が建てられています。


細川家第四代細川光尚公御廟」。
4代当主(熊本藩2代)細川光尚の御廟。
初代藩主忠利の長男として生まれ、
島原の乱に父と共に参戦。
父の死去に伴い家督を相続しますが、
上記の阿部一族の立て籠もりが発生し、
これを鎮圧する事件が起こっています。
隠居の忠興が死去した際は遺言により、
従弟の細川行孝に3万石を分与し、
支藩の宇土藩を立藩させました。
藩政の基礎を固めたとされますが、
治世は8年と短く31歳の若さで死去。
嫡男細川綱利は7歳と幼少で、
当時は改易や減封も免れませんでしたが、
光尚は領地返上の遺言を提出し、
公儀の好感を得る事が出来た為、
領地安泰で綱利に相続が許されました。

つづく。
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