熊本藩熊本市 泰勝寺跡/熊本藩細川家墓所①

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小倉藩藩主であった細川忠興は、
細川藤孝の追善の為に泰勝院を建立。
当初は小倉に創建されていましたが、
細川家の熊本藩への加増転封により、
忠興の隠居地八代の移転されます。
また熊本藩初代藩主となった細川忠利は、
立田山に祖父母と母を祀る泰勝院を建立。
この為に二つ泰勝院が存在しましたが、
忠興が死去すると立田山の泰勝院に葬られ、
八代の泰勝院は廃されて併合となり、
泰勝院から泰勝寺に改称されました。
以後は藩祖らの墓所として藩に庇護され、
忠利以下7代藩主までは、
花岡山妙解寺を墓所としていましたが、
8代藩主細川斉茲が泰勝寺に葬られ、
以後は9代藩主細川斉樹
11代藩主細川韶邦、12代藩主細川護久
15代当主細川護成が葬られています。


泰勝寺跡(立田自然公園)」。
泰勝寺は廃仏毀釈により廃されており、
その庭園及び墓所を熊本市が借り受けて、
立田自然公園として一般公開しています。
入園料は大人200円、小中学生100円。


四つ御廟」。
初代当主細川藤孝と正室麝香の方
2代当主細川忠興と正室細川ガラシャ
この4人の廟所は四つ御廟と呼ばれます。

四つ御廟は区画が狭く全体撮影は厳しい。
以下は内部の五輪塔の写真となります。

泰勝院殿前兵部徹宗玄旨幽斎大居士 神儀」。
細川家初代当主細川(長岡)藤孝の墓。
足利将軍家家臣三淵晴員の次男で、
同じく将軍家家臣細川晴広の養子となり、
13代将軍足利義輝に仕えましたが、
義輝は三好氏により殺害された為、
その弟覚慶を他の家臣らと救出しました。
この覚慶が後の15代足利義昭で、
藤孝は義昭擁立に奔走しており、
明智光秀を通じて織田信長と知り合い、
義昭の将軍就任後は信長に接近。
信長が義昭を追放してからは、
正式に信長の家臣となっています。
その際に信長より長岡姓名乗りを許され、
以後は死没まで長岡姓を名乗っており、
織田家の部将として畿内各地を転戦。
本能寺の変では光秀の誘いを拒絶し、
嫡男忠興に家督を譲って隠居した為、
※以降は長岡幽斎を名乗る。
これによって光秀は窮地に追い込まれ、
羽柴秀吉に討たれる事となりました。
その後は秀吉に従っており、
秀吉による紀州征伐九州征伐に参加。
幽斎は茶道和歌に造詣が深い文化人で、
三条西実枝より古今伝授を受けており、
関ヶ原の戦い当時唯一の伝承者だった為、
幽斎の守る田辺城西軍に攻められると、
古今伝授の断絶を恐れた朝廷により、
講和の勅命が出されています。
関ヶ原本戦で忠興が戦功を挙げた為、
細川家は中津藩33万9000石に加増転封。
※後に小倉城に居城を移して小倉藩となる。
晩年は京都で暮らしており、
京都の自邸で慶長15年に死去しました。
遺骸は南禅寺塔頭天授庵に葬られており、
この墓は分骨墓のようです。


光壽院殿華岳宗栄大姉 覚霊」。
初代当主細川藤孝正室麝香の方の墓。
熊川城城主沼田光兼の娘で、
藤孝が義輝に仕えていた頃に嫁ぎ、
嫡男忠興を産んでいます。
その後も次男細川興元(谷田部藩細川家初代)、
三男細川幸隆、四男細川孝之等を産み、
藤孝も側室や妾を持たなかったという。
息子の正室ガラシャの死に影響を受け、
その翌年に洗礼を受けたとされ、
洗礼名は細川マリアだったとされますが、
これについては資料が存在しておらず、
伝説レベルの話であるようです。


松向寺殿前参議三斎宗立大居士」。
2代当主細川忠興の墓。
初代藤孝と麝香の方の長男で、
信長の嫡男織田信忠より偏諱を受け、
忠の字を貰い受け忠興を名乗ります。
明智光秀の娘玉姫を正室に迎えますが、
本能寺の変では光秀に味方せず、
喪に伏した上で玉姫と離縁して幽閉。
※後に呼び戻して復縁。
その後は豊臣秀吉に従っており、
小谷長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐
朝鮮出兵等に参陣して戦功を挙げており、
秀吉の死後は徳川家康に接近。
関ヶ原の戦いでは東軍に組しますが、
人質となるのを拒んだ正室ガラシャ(玉姫)は、
家臣に自らを殺害させてしまいます。
忠興は本戦でも功績を挙げており、
戦後に中津藩33万9000石に加増され、
後に居城を小倉城に移転。
大坂の陣にも出陣していますが、
元和6年(1620)に三男忠利に家督を譲り、
忠利が熊本藩に加増転封されると、
八代領3万石を隠居料としており、
正保2年(1645)に八代城で死去しました。


秀林院殿華屋宗玉大姉 覚霊」。
2代当主忠興正室細川ガラシャの墓。
明智光秀の三女(次女?)玉姫として生まれ、
織田信長の命により忠興に嫁ぎますが、
光秀は本能寺の変で信長を討った為、
離縁されて幽閉されています。
程なく羽柴秀吉に光秀は討たれ、
後に秀吉の執り成しで復縁。
忠興との間に細川忠隆(細川内膳家初代)、
細川興秋、細川忠利(熊本藩初代)等を産み、
大坂細川屋敷で暮らしました。
やがてキリスト教に興味を持つようになり、
天正15年(1587)に密かに洗礼。
細川ガラシャの洗礼名を与えられています。
忠隆はこれを聞いて激怒しており、
以後はガラシャに辛く接したとされ、
宣教師に離縁したいと告白したという。
やがて徳川家康が上杉征伐を始めると、
石田三成はこれを好機として挙兵。
大坂屋敷に残るガラシャを人質とする為、
屋敷を包囲して実力行使に出ると、
家人らを外に出してから家来に命じ、
自らを殺害させた後、
遺体が残らぬように屋敷を爆破させました。
宣教師オルガンティノは彼女を悼み、
焼け跡から遺骨を拾い出して
キリシタン墓地に葬ったとされ、
遺骨は後に崇禅寺に改葬されています。
従ってこの墓は分骨墓の模様。

つづく。
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