熊本藩熊本市 泰勝寺跡/熊本藩細川家墓所②

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つづき。


諦了院殿中大夫羽林次将
 越州太守覺海義廣大居士 覺靈
」。
10代当主(8代藩主)細川斉茲の墓。
宇土藩5代細川興文の三男に生まれ、
父興文の隠居に伴い宇土藩主となります。
宇土藩主時代に天明飢饉が発生しており、
領内の窮民救済に尽力。
熊本藩7代細川治年の急逝に伴い、
末期養子となって熊本藩8代藩主に就任。
積年続く財政難に対して改革を行い、
倹約銀札の発行をしていますが、
御銀所騒動が発生する等失敗しています。
23年の治世の後に隠居しており、
25年の隠居生活を送りました。


諦観院殿中大夫羽林次将
 越州太守春谷宗甚大居士 覺靈
」。
11代当主(9代藩主)細川斉樹の墓。
8代藩主斉茲の三男として生まれ、
父斉茲の隠居に伴い家督を相続します。
斉樹は倹約令での財政再建を行っており、
一定の成果はあったようですが、
16年の治世の後に30歳で早世しました。


正四位細川韶邦朝臣之墓」。
13代当主(11代藩主)細川韶邦(慶順)の墓。
10代藩主斉護の次男として生まれ、
万延元年に父の死去に伴い家督を相続。
第二次長州征伐に兵を派遣していますが、
藩兵は小倉で少々戦って撤退しており、
後に藩論を勤皇にまとめました。
その際に将軍家より偏諱のの字を捨て、
諱を慶順から韶邦としています。
版籍奉還に伴い熊本藩知事に就任し、
その翌年には隠居しており、
明治9年に死去しました。


従二位勲二等侯爵細川護久卿之墓」。
14代当主(12代藩主)細川護久の墓。
10代藩主斉護の三男として生まれ、
幕末期は兄(韶邦)の名代として活躍。
諸候朝廷との交渉も行いました。
鳥羽伏見の戦いでは旅装のまま、
砲火飛び交う中で御所へ参内。
これを護衛したと伝えられています。
明治2年に新政府の参与に就任しますが、
2ヶ月足らずで病気を理由に辞職。
明治3年に兄の隠居で家督を継ぎました。
藩主就任後は大胆な改革を行っており、
他藩に先立ち藩知事免職を願い出ています。
明治10年の西南戦争においては、
旧藩領の士族らの鎮撫に尽力。
戦火で被災した民の救済も行いました。
明治17年に侯爵に叙爵され、
明治23年に貴族院侯爵議員に就任。
明治26年に死去しています。


従二位勲三等侯爵細川護成卿之墓」。
15代当主細川護成の墓。
14代当主護久の長男に生まれ、
明治18年に欧州に留学。
明治26年に父の死去に伴い当主となります。
東亜同文書院東京校二代院長となり、
旧制目白中学校校長も兼任し、
後に亜同文会副会長として中国各地を巡遊。
明治44年に済生会評議員も務めました。
大正3年、死去。

熊本藩細川家の現当主(18代)は、
79代内閣総理大臣だった細川護熙
2024年現在は政界を引退しており、
陶芸家として活躍しているようです。

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