熊本県熊本市 本妙寺/加藤清正廟所

加藤清正豊臣秀吉子飼いの武将で、
賤ヶ岳七本槍のひとり。
所願成就の神として信仰されており、
現在もよく知られる武将。
朝鮮出兵での虎退治の逸話や、
築城の名手としても知られています。
清正は慶長16年(1611)の京都からの帰路、
船中で突然死去(脳溢血とされる)しました。


仁王門(山門)」。
巨大な仁王門は鉄筋コンクリート造。
島根の資産家小林徳一郎の寄進で、
大正9年に建立されたもの。
国指定登録有形文化財


参道」。
仁王門の先は長い参道が伸びており、
両脇に12もの塔頭が並んでいます。

参道突き当りの右手が本妙寺

大本堂」。
清正が父加藤清忠の菩提を弔う為、
天正13年(1585)に大坂に建立し、
後に清正が熊本城主となった際に移転。
城下の瑞龍院を城内に移し、
本妙寺と合併させていますが、
清正墓所として浄池廟が造営されると、
その麓に移転しています。
大本堂西南戦争で焼失しており、
明治27年に再建されたもの。


胸突雁木」。
本妙寺前から浄池廟に至る石段。
176段の急勾配の石段で、
中央には寄進された石灯籠が並びます。
石灯籠の数は700にも及ぶという。


六喜廟」。
胸突雁木の途中より左に入ると、
加藤忠廣一族の墓があります。
忠廣は加藤清正の三男として生まれ、
11歳にして家督を相続しました。
若年の為に幕府9ヶ条の掟書を示し、
家督相続の条件としており、
重臣による合議制で藩運営が成され、
藤堂高虎がその後見人となっています。
しかしこれが牛方馬方騒動等、
重臣間の対立により藩内は著しく混乱。
この状況に幕府は忠廣を改易処分とし、
庄内藩預りとしました。
一代限りの捨扶持1万石を与えられ、
忠廣は庄内丸岡の地で死去。
また嫡男加藤光正高山藩金森家に、
次男加藤正良沼田藩真田家に預けられ、
それぞれそこで没しています。
後の昭和12年に忠廣、光正、正良、
忠廣の母正応院、正良の母法乗院等、
各地の墓所より一族の分霊を迎え、
この場所に祀られました。


中門」。
中門の扁額は三条実美の書。


拝殿」。
浄池廟は廃仏毀釈で本妙寺と切り離され、
更に社殿が熊本城内に移設されて、
墓碑だけが残されたとのこと。
その後の明治27年に再建されており、
現在の形になったようです。


浄池廟」。
浄池廟の本殿で清正の廟(墓)。
この下に清正が埋葬されているようです。
清正の遺骸は甲冑を着せられて、
石棺に朱詰めにされて埋葬されたとのこと。
但し荼毘に付されたともされており、
更には忠廣が庄内に持っていったともされ、
結局はよくわかりません。
でも甲冑を着せて朱詰めにして、
そのまま現在も埋まっているというのが、
非常にロマンがあると思います。


清正公大尊儀」。
浄池廟の裏手の石段の上にある清正像
昭和10年の清正没後325年忌の記念事業で、
彫刻家北村西望が製作したもの。
※代表作は長崎県の平和記念像
非常にカッコいい銅像ではありますが、
ここに行くには300段の石段が待っています。
胸突雁木後の300段は地獄でした・・・・。

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