熊本県熊本市 見性寺/米田家墓所

見性寺は中央区坪井にある臨済宗の寺院。
熊本藩家老米田家三代米田是季により、
米田是政の菩提を弔う為に建立されました。


本堂」。
幕末期には修行僧が60名程在籍し、
坐禅道場として栄えていたようですが、
西南戦争の戦火で焼失してしまい、
以後は仮本堂となっていました。
その後の平成24年に再建され、
現在は立派な本堂となっています。


米田家墓所」。
境内墓地にある米田家墓所
笠塔婆型の墓碑が並んでいますが、
墓碑は戒名のみで被葬者は特定出来ず。
米田家は足利将軍家に仕えた家系で、
初代米田求政が細川藤孝に仕え、
3代是季が長岡姓を与えられますが、
細川忠興の怒りを買って出奔。
後に帰参して家老となっており、
以後は上卿三家二座の家格として、
4代米田是長、5代米田是庸、6代米田是春
7代米田是福、8代米田是知、9代米田是睦
10代米田是容、11代米田是豪
12代米田虎雄と続いています。


初代米田求政墓(右)」、
2代米田是政墓(中央)」、
3代米田是季墓(左)」。
最奥に並ぶ初代~3代当主の五輪塔。
求政は13代将軍足利義輝の家臣でしたが、
義輝は三好氏により殺害された為、
藤孝ら旧臣と共に将軍の弟覚慶を救出。
この覚慶が15代足利義昭となります。
永禄12年(1569)から藤孝に仕え、
天正19年(1591)に求政が死去してからも、
子の是政が同じく藤孝に仕えましたが、
是政は岐阜城の戦いで戦死。
子の是季が忠興に重く用いられますが、
是季の妹婿飯河肥後が誅伐された事により、
忠興に抗議して怒りを買ってしまい、
出奔して浪人となりました。
その後は大坂城に入って参陣し、
大野治房隊に所属して奮戦していますが、
大坂城落城後は近江の西教寺で蟄居。
後に細川家の呼び掛けで帰参しており、
大坂城再建普請島原の乱
ポルトガル使節の追い払い等で活躍し、
3代藩主細川綱利の家督相続にも関与。
忠興から綱利まで4代に仕えています。


故肥後藩大夫温良長岡君墓道表」。
10代当主米田是容の墓道表(顕彰碑)。
是容は9代米田是睦の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
12代藩主細川斉護に仕え、
横井小楠下津久馬ら改革派に協力。
文武芸倡方となり藩校時習館を改革し、
実学党と呼ばれる派閥を形成しています。
しかし守旧派家老松井章之と対立し、
改革は失敗して失脚。
後にペリー来航で時勢が変化すると、
復帰して江戸詰を任じられました。
是容は攘夷論者であったようで、
開国を唱える横井小楠と後に対立。
これが藩政を更に混乱させています。
隠居後は八代で過ごし安政6年に死去。

11代は長男米田是豪が相続し、
是豪が安政2年に死去すると、
次男の米田虎雄(是保)が12代を継ぎ、
戊辰戦争に出陣して各地を転戦。
戦後は熊本藩大参事に就任しています。
廃藩後は宮内省に出仕。
侍従長主猟官宮中顧問官を歴任し、
男爵から子爵に陞爵されました。

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