秋田県大館市 十二所館跡

久保田藩盛岡藩との藩境の要衝十二所に、
本格的な城郭である十二所城を築城し、
その防御拠点としていましたが、
一国一城令によって破却されています。
十二所城は館構えに造り替えられ、
十二所館として山麓に設置されており、
盛岡藩との藩境警備の役割を負って、
更に周辺の行政を担いました。


十二所城本丸跡」。
十二所の南の高台にある本丸跡
十二所城は塩谷義綱が築城した山城で、
本郭東郭南郭南東郭を揃え、
空堀を巡らせた堅固な城だったようです。
しかし破却の際に堀は埋められ、
各郭は原形を留めておらず、
僅かに本郭西側の空堀跡が現存。
とはいえ草木に覆われていますので、
素人にはよくわかりませんでした。


十二所館跡」。
麓に建てられたという十二所館は、
十二所公民館のある場所がその跡地。
茂木屋敷とも呼ばれました。

公民館前方の駐車場は、
郷校成章書院のあった場所。

成章書院之趾」碑。
成章書院は寛政5年(1793)に設立。
教授に塩谷頼母大森金吾
教授見習に他5名が任命されています。
創立当時は単に郷校と呼はれたようですが、
寛政10年(1798)に成章書院と命名。
9代藩主佐竹義和の扁額が下賜され、
藩校御学館より指導員が派遣されましたが、
他校より風紀に厳正で生徒の成績も良く、
職員の勤務状況も極めて良好でした。
成章書院に学んだ武士達の中には、
私塾を開いて町民に教える者も多く、
十二所は好学の気風が盛んであったという。

十二所には天和3年(1683)より、
茂木知恒城代(正確には所預)として入り、
以後は廃藩まで十二所を統治しましたが、
明治元年に盛岡藩の侵攻を受けて焼失。
当主茂木知端大館まで退却しますが、
後に援軍を得て十二所を奪還しました。
その後に十二所館は再建されていますが、
廃藩置県後に破却されたようです。

■関連記事■
秋田県大館市 十二所城代茂木家墓所
 十二所を統治した茂木家の歴代墓所。
秋田県大館市 大館城跡
 久保田藩の支城で秋田戦争の激戦地。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です