壬生宿は日光西街道の宿場で、
壬生城下に置かれていました。
日光西街道は壬生道とも呼ばれ、
日光街道の小山宿の北にある喜沢追分から、
鹿沼宿、壬生宿を経て楡木宿に至り、
日光例幣使街道と合流する脇街道です。
下都賀郡壬生町周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが壬生宿跡。
「壬生宿跡」。
壬生は壬生城の城下町で、
壬生城築城前後には集落があったようです。
日光西街道が整備されてからは、
宿場町として整備されており、
慶安4年(1651)に3代将軍徳川家光が死去し、
遺骸が日光に運ばれる際に壬生宿に立ち寄り、
興光寺で仮通夜が行われました。
「壬生本陣松本庄兵衛家跡」。
本陣を務めた松本庄兵衛家の跡地、
通町の名主松本家庄兵衛家は、
壬生で大きな影響力を持っており、
脇本陣も分家が務めていました。
「石崎家(賛成医院跡)」。
代々壬生藩医を務めた石崎家の住宅。
嘉永6年に火災で焼失した後、
万延元年に再建されたもので、
母屋と長屋門が現存しています。
歴代当主はここから城内に出勤し、
非番の際はここで患者を診察したり、
駕籠で往診に出掛けたとのこと。
「齋藤玄昌旧宅跡(勝怠堂跡)」。
ケーキ家水澄み菓のある場所が、
壬生の蘭医齋藤玄昌の旧宅跡。
齋藤玄昌は羽刈村の医師の子で、
江戸で蘭医学を習得し、
帰国後に藩の蘭医となっています。
上記の石崎家当主石﨑正達と共に、
人体解剖を行って[解体正図]を記録。
これは関東諸藩初の公認解剖でした。
また天然痘流行の際には、
種痘の予防接種を下野国で最初に行い、
その流行を防いだとされます。
この他に復陽堂の五十嵐順智など、
壬生では多く蘭方医を輩出したことから、
街道筋は[蘭学通り]と称されていました。
学問が盛んだったようですが、
野州壬生は剣術が盛んな事でも有名。
高杉晋作は試撃行日譜で、
壬生に訪れた事を記しています。
壬生の剣豪松本五郎兵衛に試合を申し込み、
※聖徳太子流及び神道無念流の剣客で、
初期の練兵館の高弟だったとされます。
どうもコテンパンにやられた模様で、
以後は日記を書く気力も無くしてしまい、
以前は情緒豊かな日記でしたが、
その日以来箇条書きとなってしまいました。
試撃行日譜⑥
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