壬生城は壬生藩の藩庁。
壬生城は壬生綱重によって築かれ、
壬生氏の拠点となっていた城でしたが、
戦国時代の当主であった壬生義雄は、
小田原征伐で北条家に味方しており、
壬生氏は所領を没収されて没落。
壬生城周辺は結城秀康に与えられました。
その後に秀康は越前に転封され、
以降は日根野吉明、阿部忠秋、三浦正次、
松平輝貞、加藤明英と入れ替わり、
鳥居忠英が3万石で入封されてからは、
鳥居家が壬生藩の藩主家として続いています。
壬生城跡は廃藩後に農地や宅地となり、
本丸のみが鳥居家別邸として残りましたが、
昭和2年に落雷で別邸が焼失してしまい、
跡地は鳥居家から壬生町に寄付。
本丸跡には後に町立壬生中学校が入り、
昭和61年の移転までその敷地となりました。
その後に本丸跡は壬生町城址公園となり、
周辺に図書館、公民館、資料館、駐車場等、
公共施設が整備されています。
「城門」。
壬生町城跡公園入口に建てられて城門。
よくある雰囲気作りの為の模擬門ですが、
あるのとないのでは違います。
「堀と土塁」。
本丸南側の水堀と土塁は現存。
しかしながらかなり手が加えられています。
「本丸跡」。
中央に噴水が設置された本丸跡。
中学校時代の数度の校庭拡張により、
北側の水堀や土塁は消失しています。
城跡は南側の水堀と土塁以外は、
あまり見るべきものは無し。
公園を出て西北にある精忠神社へ。
「精忠神社」。
正徳2年(1712)に初代藩主鳥居忠英により、
藩祖鳥居元忠を祀る神社として創建。
始めは本丸内にあったようですが、
幕末期に現在地の二ノ丸に移転したようです。
鳥居元忠は徳川家康の忠臣として知られ、
関ヶ原の前哨戦である伏見城の戦いで、
13日間の籠城戦の末に討死。
元忠の血が染みついた血染めの畳は、
家康がその忠義を称える為に、
江戸城伏見櫓の階上に保管され、
登城した大名たちの頭上に掲げられました。
「畳塚」。
社殿の裏手にある畳塚。
※逆光で良い写真が撮れませんでした。
江戸城が新政府に明け渡された後、
血染めの畳は鳥居家の所有となり、
ここに埋められているようです。
家康や徳川秀忠は元忠の戦功と忠義に応え、
息子の鳥居忠政を重く用いており、
最終的に山形藩22万石を与えました、
しかし次代の鳥居忠恒には実子がなく、
異母弟鳥居忠春が居たにも関わらず、
同母弟の戸沢定盛に家督を譲ると遺言。
これが幕府で問題となってしまい、
鳥居家は改易処分となります。
但し先祖元忠の忠義に免じられて、
忠春への家督相続が許され、
高遠藩3万2000石が与えられます。
しかし忠春の次代鳥居忠則は、
家臣の覗き事件で閉門処分となり、
その捜査中に急死。
覗きの疑いのあった家臣も自害した為、
真相は闇の中となっていますが、
最終的に家臣団の統制不行届により、
継嗣鳥居忠英の家督相続が認められず、
再び改易になりました。
とはいえここでも元忠の忠義が鑑みられ、
下村藩1万石を与えられており、
後に水口藩2万石を経て、
壬生藩3万石に加増されています。
元忠以後は案愚な藩主が多く、
家政は非常に不安定だったようですが、
壬生藩初代藩主忠英は名君とされ、
産業育成に貢献し名産の干瓢作りを推奨。
藩校学習館も創設する等、
壬生藩政の基礎を創り上げました。
その後は3代鳥居忠意が老中に昇進し、
6代鳥居忠挙が若年寄となる等、
幕政に貢献していますが、
藩財政は困窮の一途を辿っていたという。
幕末の壬生藩は藩内で勢力争いが起こり、
尊攘派と保守派の藩内抗争で乱れますが、
天狗党の乱が発生した事により、
尊攘派が一掃されています。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、
壬生藩は新政府に恭順。
下野世直し一揆や宇都宮戦争に、
藩兵を派遣して戦功を挙げました。
最後の藩主(藩知事)鳥居忠文は、
明治3年に家督を相続していますが、
その翌年に廃藩置県で免官となり、
岩倉使節団の随員となって米国に留学。
帰国後は外務省御用掛となっており、
明治22年にはハワイ王国領事に就任し、
明治23年に貴族院議員に選出され、
大正3年に在職のまま死去しています。
【壬生藩】
藩庁:壬生城
藩主家:鳥居家
分類:3万石、譜代大名
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