吉祥寺にある壬生藩鳥居家の墓所。
徳川家康の家臣鳥居元忠は、
徳川十六神将の一人にも数えられ、
本多忠勝らと共に旗本先手役の将となり、
姉川の戦い、三方ヶ原の戦い等で奮戦。
天正壬午の乱では1万の北条勢を、
僅か2000弱の兵で撃退しました。
家康が上杉討伐の為に会津に出兵すると、
石田三成挙兵で落城必須の伏見城を守り、
西軍40万の大軍に2300名で籠城。
10日に及ぶ防戦の末に全滅しており、
元忠も鈴木重朝に討ち取られました。
元忠の次男鳥居忠政(初代当主)は、
江戸城留守居役を務めており、
関ヶ原の戦い後に父の戦功によって、
磐城平藩10万石を与えられます。
大坂の陣でも江戸城留守居役を務め、
最上家改易後に山形藩に加増転封となり、
22万石となっています。
「孝徳寺殿前京兆鐵山玄大居士」。
山形藩2代藩主(2代当主)鳥居忠恒の墓。
初代藩主忠政の長男として生まれ、
父の死去により家督を相続しました。
父の側室内藤氏と不仲だったようで、
内藤氏の子鳥居忠春を養嫡子とせずに、
同母弟戸沢定盛に家督を譲るという遺言。
これが末期養子を禁じた幕法に触れ、
鳥居家は改易となっています。
その後、祖父元忠の功を鑑みられ、
忠春(3代当主)が高遠藩3万2000石で復興。
しかしこの忠春が悪政を繰り返し、
暴君として非道の限りを尽くした為、
最後は侍医に暗殺されてしまいました。
これは幕府の知るところにならず、
家督は忠春長男の鳥居忠則(4代当主)が相続。
この忠則も暗愚な藩主だったようで、
家中不取締で閉門を命じられ、
間もなく急死しており、
鳥居家は2度目の改易処分となります。
しかしまたも元忠の功積が鑑みられ、
下村藩1万石で鳥居忠英(5代当主)が再興。
先代、先々代に似ず名君だったようで、
後に水口藩に1万石加増で転封し、
更に1万石加増されて壬生藩に移り、
以後は壬生藩鳥居家として、
廃藩置県まで続きました。
「觀光院殿廓應泰然大居士(左)」、
「子爵鳥居忠文之墓(右)」。
壬生藩4代藩主(8代当主)鳥居忠燾の墓と、
壬生藩8代藩主(12代当主)鳥居忠文の墓。
忠燾は壬生藩2代鳥居忠見の次男で、
父の死去に伴い家督を相続しました。
27年の治世の後に死去。
忠文は6代鳥居忠挙の四男に生まれ、
兄で7代の鳥居忠宝の養子となり、
明治3年に忠宝が隠居した為、
壬生藩知藩事となっています。
廃藩置県後は司法省に出仕しますが、
岩倉使節団の一員として訪米し、
留学して法律を学びました。
帰国後は外務省御用掛等を務め、
明治22年にハワイ王国領事に就任。
明治23年には貴族院子爵議員に選出され、
大正3年に死去しています。
鳥居家の菩提寺は江岸寺だったようで、
現在は初代当主鳥居忠政の墓が、
唯一境内に残されている模様です。
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