古河城は古河藩の藩庁ですが、
その起源は平安末期か鎌倉初期とされ、
御家人下河辺行平が築城したようです。
室町期には古河公方足利成氏が本拠とし、
江戸時代には譜代大名が入れ替わり、
近代城郭として整備されていますが、
廃藩後は渡良瀬川の河川工事により、
徹底的に破壊されて跡形も無く、
現在は何も残っていません。
「古河城本丸跡」。
何もない・・。
渡良瀬川の堤防に本丸跡の碑があるのみで、
整備された堤防と河川敷が広がるだけです。
古河城は渡良瀬川の東岸に位置し、
台地のようになっていたとされ、
その東側には沼地が広がっており、
天然の水堀となっていました。
その台地に複数の曲輪を直線状に配置し、
北側からしか入れないようになっており、
非常に守りに適していたようです。
しかしこれ程までに何も無いとは・・。
但し古河城には江戸期の城には珍しく、
出城が設置されていた為、
僅かながら遺構が残っています。
「古河歴史博物館(諏訪曲輪跡)」。
連郭式であった古河城の中で、
唯一離れていた諏訪曲輪の跡で、
現在は古河歴史博物館となっています。
「土塁及び水堀跡」。
水堀はかなり手が加えられていますが、
その面影は充分残る諏訪曲輪跡。
古河歴史博物館前は高見泉石の旧宅。
「鷹見泉石記念館」。
古河藩家老鷹見泉石の旧宅。
泉石は御使番役鷹見忠徳の嫡男で、
藩主に近従して出世を繰り返して、
最終的に家老にまで昇進しています。
各地を藩主に同行して職務を補佐し、
「土井の鷹見か、鷹見の土井か」と、
藩外から賞賛を受ける程であったという。
早くから海外に関心を寄せており、
様々な情報や技術の収集を行い、
更に川路聖謨、江川英龍等の幕臣や、
渡辺崋山、桂川甫周等の蘭学者、
箕作省吾、高島秋帆等の技術者らと、
広く交流して博識を高めました。
しかし弘化3年(1846)には隠居しており、
安政5年に74歳で死去しています。
この屋敷は最晩年を過ごした場所。
敷地内に南画家奥原晴湖の画室があります。
「奥原晴湖画室」。
古河出身の女流南画家奥原晴湖は、
東京都上野で活動していましたが、
明治24年に埼玉県熊谷に移住。
そこで晩年まで創作活動を続け、
大正2年に死去しています。
画室は甥の池田多喜雄邸に移築され、
後に現在地に再度移築されました。
古河藩は譜代大名が多く入れ替わり、
その交代は11回にも及びます。
小笠原秀政(府中)の3万石が最初で、
松平康長(戸田松平)が2万石を経て、
松尾小笠原家が2万石で2代続き、
奥平忠昌が11万石、
永井宗家が7万余石で2代、
そして土井利勝が16万余石で入封し、
第一次土井家古河藩が始まります。
2代土井利隆が分知で13万余石に、
3代土井利重も同じく分知で10万石と、
代を追うごとに所領が削減しており、
更に4代土井利久が無嫡で早逝。
しかし先祖の功績が鑑みられ、
分家の土井利益に家督相続が許され、
所領は7万石となっています。
その後に利益は鳥羽藩へ転封となり、
第一次土井家古河藩は終了。
代わって正俊流堀田家(佐倉)が入り、
藤井松平家、大河内松平家、
本多平八郎宗家、松井松平家と代わり、
土井利里が7万石で入封して、
第二次土井家古河藩が始まります。
※後に10代当主土井利厚が老中となり、
その功で1万石加増されています。
80年余ぶりに古河に戻った土井家は、
以後7代続いて廃藩を迎えており、
幕末期は西洋砲術の演習、武芸の奨励、
片町教武所の創設等を行いました。
鳥羽伏見の戦いで旧幕軍が敗北すると、
新政府に恭順の姿勢を見せますが、
手違いで彰義隊に加濃砲を貸し出し、
新政府軍に睨まれるハメに陥り、
挙句1万両を献金しています。
【古河藩】
藩庁:古河城
藩主家:土井宗家
分類:8万石、譜代大名
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