正定寺は古河市大手町にある浄土宗寺院。
寛永10年(1633)に土井利勝が創建し、
土井宗家の領内菩提寺となりました。
※古河市下大野にも正定寺がありますが、
こちらも土井宗家の菩提寺です。
「赤門」。
正定寺の南側にある赤門。
安永4年(1775)に8代当主土井利里が建立。
他にも東側に黒門と呼ばれる門があり、
江戸下屋敷表門を移築したものらしい。
残念ながら写真は撮っていません。
「本堂」。
天保3年(1832)再建の本堂。
寺宝には絹本著色土井利勝肖像画、
初代利勝が使用した海老胴具足、
軍扇、真筆等の他、
拝領した徳川家康の猿毛の槍鞘等、
貴重な所縁の品々があるとのこと。
「土井利勝公御像」。
土井家宗家初代土井利勝の坐像。
幕閣として絶大な権勢を誇った人物で、
家康の落胤とも噂されています。
「侍従樅碑」。
土井利勝の御代記碑。
[樅]は別邸内に衣冠を埋葬し、
そこに大きなモミの木があったのが由来。
この碑は14代土井利与が建立したもので、
昭和8年に正定寺に移築したもの。
この碑文にも家康の実子と刻まれています。
「土井家墓所」。
土井家の墓所は墓地の最奥。
墓所は元々浅草の誓願寺でしたが、
関東大震災後に改葬されています。
「寶地院殿前拾遺隠譽泰翁覺玄居士(左)」、
「榮福院殿誠譽英心利貞大姉(右)」。
初代当主(第一期初代藩主)土井利勝の墓と、
側室だった榮福院(駒井氏)の墓。
※土井家は一時古河藩から離れており、
土井家古河藩は二期に分かれます。
利勝の生まれには諸説あり、
水野信元の庶子、土井利昌の子、
徳川家康の落胤等定かではありません。
信元が武田家との内通で殺された際、
家康は利勝を利昌の養子とするよう命じ、
利昌は実子かいるにも関わらず、
俊勝に家督を継がせています。
7歳で徳川秀忠の傅役に任命され、
後にその側近となっており、
政治的手腕に長けて秀忠を助け、
秀忠付の老中に就任。
家康の側近本多正純が失脚すると、
幕閣の最高権力者となり、
徳川家光の代にもその権勢は衰えず、
最終的には大老となっています。
「寶地院殿前拾遺隠譽泰翁覺玄居士」。
こちらも同じく初代利勝の墓。
増上寺にも利勝の墓があったようで、
そちらも平成2年に移されていますので、
俊勝の墓が2基あるのだと思われます。
「土井家墓」。
歴代当主の合葬墓。
震災で破壊されてしまったのか、
費用面で全てを改葬出来なかったのか、
歴代当主は合葬されています。
「天誠院殿従四位永蓮社
覺譽利則義道大居士」。
13代当主(第二期6代藩主)土井利則の墓。
初代利勝夫妻の墓碑の他に、
13代当主利則夫妻の墓碑もあります。
14代当主利与の代に改葬されてますので、
父母のものは残されたのでしょう。
利則は久居藩14代藤堂高秭の四男で、
12代土井利亨の婿養子となりました。
養父利亨の死去に伴い家督を相続し、
軍制に西洋砲術を取り入れた他、
武芸や学問の奨励を行っていますが、
病弱だった為に慶応3年4月に隠居。
その後は養生して暮らした様で、
明治24年まで生きています。
土井家墓の後側にある石版群。
藩主らの柩の蓋石のようですが、
これらも誓願寺にあったものでしょう。
「下総古河城主従四位侍従
土井大炊頭源俊里公」。
8代当主(第二期初代藩主)土井利里の蓋石。
利里は唐津藩時代の藩主でしたが、
再び古河藩に国替えとなっていますので、
土井宗家8代当主であり、
第二次土井家古河藩の初代藩主です。
幕政で奏者番、寺社奉行、京都所司代と、
出世を繰り返していましたが、
老中に登りつめる前に死去しました。
「下総古河城主従五位下
土井美濃守源利見公」。
9代当主(第二期2代藩主)土井利見の蓋石。
西尾藩初代松平乗祐の十男に生まれ、
初代利里の養嫡子となっています。
養父利里は幕政に参与していた為、
藩主の名代を務めており、
10代将軍徳川家治の日光参拝では、
不在の藩主に代わって一行を迎えました。
しかし養父利里の死後に家督を継ぐと、
その僅か1ヶ月後に病死してしまいます。
「納従四位土井利則之柩」。
こちらは13代利則の蓋石。
初代だけ残して合葬するパターンは、
他の藩主家でもよくあるケースですが、
蓋石まで持って来ているところや、
その代数がマチマチなので、
やはり破壊されたのかもしれませんね。
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・茨城県古河市 古河城跡
古河藩土井家の居城跡。
・佐賀県唐津市 土井利延墓所
7代当主(唐津藩主)土井利延の墓。
・東京都台東区 谷中霊園/土井利與墓所
14代当主(7代藩主)土井利與(利与)の墓。