染井霊園にある桑名藩久松松平家の墓所。
「桑名藩久松松平家墓所」。
13代当主松平定敬以降の墓所。
桑名藩久松松平家の墓所は他に、
桑名市の照源寺、圓妙寺、
東京都江東区の霊巖寺等があります。
「従二位松平定敬之墓(右)」、
「松平夫人初子之墓(左)」。
4代藩主(13代当主)松平定敬の墓と、
その正室松平初子の墓。
高須藩10代松平義建の八男で、
高須四兄弟のひとりとして知られます。
桑名藩3代松平定猷が死去した際、
その長男松平定教は幼少であった為、
定猷の娘初姫の婿養子に迎えられ、
14歳で4代藩主となっています。
元治元年に京都所司代に任じられ、
京都守護職の実兄松平容保と共に、
京都の治安維持に尽力しており、
これに一橋慶喜もこれに加わって、
一会桑政権と呼ばれた独立勢力を形成。
事実上の在京閣老となっていました。
鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜は、
抗戦派である容保と定敬を伴い、
大坂城を脱出して江戸に帰還。
定敬は藩兵と共に飛地柏崎に移動し、
新政府に徹底抗戦しており、
明治2年の箱館戦争まで戦っています。
戦争終結前に離脱して上海へ渡航しますが、
資金不足の為に逃亡を断念して横浜で降伏。
明治5年に放免された後は、
定教や家臣と共に修文館に入学。
教師で宣教師のS.R.ブラウンが独立すると、
その私塾ブラウン塾に学びました。
明治7年には米国に留学しており、
帰国後に起こった西南戦争では、
旧桑名藩士を率いて参戦。
明治27年には日光東照宮宮司に就任し、
明治29年まで務めています。
初姫は定敬の藩主就任の際は3歳で、
正式に正室となったのは
明治5年で16歳となってから。
初子は明治34年に、
定敬は明治41年に死去しています。
「正四位子爵松平定教之墓(右)」、
「松平夫人鈴子之墓(左)」。
5代藩主(14代当主)松平定教の墓と、
その正室松平鈴子の墓。
3代定猷の長男ではありましたが、
庶子で更に幼少であった為に、
家督は定敬が相続しており、
その養嫡子となりました。
新政府が樹立して定敬が朝敵となると、
国許で新藩主に擁立され、
新政府に恭順して蟄居。
しかし定敬が抵抗を続けていた為、
藩の存続は許されませんでしたが、
定敬が新政府に降伏すると許されて、
5万石減封されて藩知事に就任しました。
廃藩置県後は東京に移住し、
養父定敬と共に英語を学んだ後、
明治7年に米国に留学。
帰国後は外務省の書記官として働き、
明治17年に子爵となっています。
その後は貴族院子爵議員となり、
明治32年に在任のまま死去しました。
夫人の鈴子は山岡鉄舟の娘です。
墓所は1種イ4号2側。
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