西蓮寺は伊賀市にある天台真盛宗の寺院。
寺伝によると延暦24年(805)創建とされ、
天台真盛宗開祖真盛上人が復興し、
この寺で晩年を過ごして遷化しており、
その廟所となっています。
訪問時はどんよりとした天気で、
あまり良い写真は撮れませんでした。
「本堂」。
木造平屋建入母屋造本瓦葺の本堂。
本尊は阿弥陀如来像で、
重文の絹本著色藤堂高虎像等、
多くの文化財を有しているとのこと。
江戸期には津藩藤堂家の祈願所及び、
上野城代藤堂采女家の菩提寺となり、
寺領を与えられて庇護されました。
「真盛上人御本廟(真盛廟)」。
本堂右側にある真盛上人の廟所。
真盛上人は比叡山西塔慶秀に師事し、
天台宗の教学を学んで修行を重ね、
権大僧都の僧階に至りました。
下山後は宮中で説法を行い、
皇族や公卿らに無欲と慈悲を説き、
宮中で評判となったという。
晩年は近江国坂本の西教寺を再興し、
天台宗真盛派の本寺とした他、
布教と諸寺院の復興の旅に出て、
この西蓮寺で没しました。
本堂左側にある藤堂采女家の墓所。
「凌雲院殿大應秀山大居士(左)」、
「瑞光院殿文岳〇〇大姉(右)」。
初代当主藤堂元則の墓と、
その正室瑞光院の墓。
元則は服部半蔵則直の子に生まれ、
伯父保田栄西の養子となり、
養父と共に増田長盛に仕えました。
関ケ原の戦いで増田家が改易された為、
藤堂高虎に仕えていますが、
徳川家康の命で藤堂姓に改称。
大坂の陣で抜群の戦功を挙げ、
5000石の知行を与えられており、
藤堂高清の死後は上野城代となります。
※高清は初代藩主藤堂高虎の三男。
慶安4年(1651)に隠居し、
病を得て京都で養生しており、
万治3年(1660)に死去しました。
「本〇院殿快翁〇眞大居士」。
2代当主藤堂元住の墓。
初代元則の子として生まれ、
幼少期は江戸で幕府の証人となりました。
父の隠居に伴い家督と城代職を相続。
後西天皇即位式の祝賀使者を務め、
36年の当主在任後に死去しています。
「諦信院殿淳性玄仙友翁大居士」。
3代当主藤堂高稠の墓。
2代元住の長子藤堂元光の四男に生まれ、
父が病没した為に嫡孫となり、
祖父元住の死去に伴い家督を相続。
44年の当主在任後に隠居し、
その4年後に死去しました。
「瑞峯院殿霊山英智大居士」。
4代当主藤堂元杜の墓。
3代高稠の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を継ぎますが、
若年だった為か城代職は認められず、
藤堂玄蕃家の藤堂良成が城代に就任。
後に城代職に返り咲きますが、
その3年後に病死しています。
「仁譲院殿徳應秀英大居士」。
5代当主藤堂元福の墓。
藤堂新七郎家5代藤堂良躬の五男で、
4代元杜の急死により藩命で家督を継ぎ、
3代高稠の弟藤堂元甫が城代を務め、
成長後に城代に就任しました。
36年の当主在任後に死去。
「慈雲院殿徳山勇義大居士」。
6代当主藤堂元長の墓。
5代元福の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しますが、
13年の当主在任後に死去しました。
「令恭院殿慈章本立大居士」。
7代当主藤堂元孝の墓。
6代元長の長男として生まれますが、
父元長は若くして死去してしまい、
幼少ながら家督を相続。
成長まで分家の藤堂元享が城代を務め、
22歳で城代に就任しましたが、
38歳で継嗣なく病死しています。
「保田元晋墓」。
8代当主保田元晋の墓。
津藩主藤堂高兌の四男藤堂高允の次男で、
7代元孝の死去によりその家督を相続。
幼少の為に城代職は相続されず、
津藩家老が交代で城代職を務めました。
天保11年(1840)に城代に就任し、
元治元年に隠居。
晩年に保田姓に改めたようで、
墓碑銘も保田になっています。
明治8年、死去。
9代当主藤堂元施の墓も、
この西蓮寺にあったようですが、
どうも見落としてしまったようです。
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・三重県津市 寒松院/津藩藤堂家墓所①
津藩藤堂家の歴代墓所。
・東京都豊島区 染井霊園/津藩藤堂家墓所
津藩藤堂家の維新後の墓所。
9代保田元施の墓は、8代保田元晋の墓のすぐ左側にありました。
元晋の墓と同様に、「保田元施墓」と俗名が大きく刻まれただけのシンプルな墓石です。
>下方様
返信遅れて申し訳ありません。
コメントありがとうございます。
そうですか~完全に見落としですね!
三重県に行くには来年になりそうですが、
必ずもう一度行ってみます。
ついでに写真も微妙なので取り直します!