染井霊園にある津藩藤堂家の墓所。
「藤堂家墓所」。
塀に囲まれた広い墓域を持つ藤堂家墓所。
津藩藤堂家の墓所は他に、
津市の寒松院や上野動物園内にあります。
「正二位勲二等藤堂高猷墓」。
津藩11代藩主藤堂高猷の墓。
10代藩主藤堂高兌の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
伊勢神宮の警備で海岸に砲台を設置し、
兵制を洋式に改正しており、
文久3年の天誅組の変に出兵し、
京都警備にも兵を送りました。
鳥羽伏見では旧幕府軍に属しますが、
戦いの最中に新政府軍に転じ、
新政府軍勝利の要因にもなりましたが、
その変節を蔑まれる結果となっています。
その後の戊辰戦争や箱館戦争にも出兵し、
維新後の明治4年に隠居。
明治28年に死去しました。
「従三位伯爵藤堂高潔墓(右)」、
「従三位伯爵藤堂高潔室量子墓(左)」。
津藩12代藩主藤堂高潔の墓と、
その正室藤堂量子の墓。
11代高猷の長男として生まれ、
文久3年に父の名代として上京し、
左近衛権少将に任じられています。
明治天皇の伊勢参拝の警護も務め、
明治4年に家督を相続していますが、
程なく廃藩置県となりました。
芸術に秀でた人物だったようで、
渡辺崋山に師事して花卉図を描き、
謡も免許皆伝の腕前だったという。
明治22年に死去。
正室の量子は蜂須賀家からの姫。
「従二位伯爵藤堂高紹
室 信子墓」。
13代当主藤堂高紹と妻信子の墓。
12代高潔の長男として生まれ、
父の急死により5歳で家督を相続。
藤堂家には伯爵が与えられていましたが、
元家臣らは侯爵への昇叙を求めたようで、
土方久元や勝海舟らを通じて、
幾度も政府に対して請願しています。
学習院やケンブリッジ大学に学び、
宮内省を経て外務省に出仕。
その後の明治41年に重婚未遂が発覚し、
※北白川宮武子女王との婚約後、
英国女性と結婚していた事が発覚。
後に破断しています。
一時華族の礼遇を停止されていますが、
翌年に解除されており、
後に元松代藩主真田幸民の娘信子と結婚。
昭和18年に死去しています。
墓所は1種ロ4号8-12側。
■関連記事■
・三重県津市 寒松院/津藩藤堂家墓所①
津藩藤堂家の歴代墓所。
・三重県津市 津城跡
津藩藤堂家の居城跡。