伊賀上野城は津藩の支城。
一国一城令で大名の居城以外の城は、
破却を命じられていますが、
津藩領は伊勢国と伊賀国に跨っていた為、
伊賀国の一城として存続されます。
「白鳳門」。
上野高校と上野西小学校の間にある城門。
天守再建と共に建てられた模擬の門で、
城跡の上野公園への入口となっていますが、
当時はここに入口はなかったようです。
季節には桜並木が見事に花を咲かすそうで、
提灯でライトアップもされるとのこと。
「上野城跡」碑。
桜並木の坂を登った突き当りの跡碑。
伊賀上野城跡は上野公園として整備され、
天守が再建(模擬)されている他、
桜が植えられて桜の名所となっています。
伊賀上野城は筒井定次が仁木氏館跡に築城。
定次の改易後に藤堂高虎が入封されて、
豊臣家の大坂城に対抗する為に、
大幅な拡張工事が成されました。
しかしその間に大阪夏の陣で豊臣家は滅び、
目的を無くして拡張工事は中止されました。
しかし上記の様に伊賀国の一城として存続。
未完成ながら江戸時代を通じ存在しています。
左側の道から本丸跡へ。
「天守(西南側より)」。
筒井定次の上野城天守は3層でしたが、
高虎は5層の天守建設を開始。
しかし慶長17年(1612)の大嵐により、
完成直前に崩壊して多くの死傷者を出し、
建設は中断していたようで、
その間に大坂城は落城します。
この為に天守の再建はされなくなり、
本丸に櫓は建てられなかったという。
現在の天守は代議士川崎克が、
支援者と共に私財を投じて再建したもので、
3層層塔型の天守となっています。
昭和10年に完成したもの。
正式には伊賀文化産業城というらしい。
「高石垣(上から)」。
伊賀上野城といえば高石垣。
大坂城高石垣と共に、
日本で一、二を競う高さとされます。
※実際の一番高い石垣は大坂城で、
本丸東面が約32.0mで、
南外堀も約30.0mあるとのこと。
但し伊賀上野城の高石垣も29.7mで、
遜色ない高さを誇っています。
人が落ちて死んでしまうこともあるらしい。
「天守(東南側より)」。
同時期に再建された大坂城の天守は、
鉄筋コンクリート建築ですが、
こちらは木造瓦葺の白漆喰塗籠造。
これは川崎克の強い要望であったらしい。
内部には藤堂高虎の黒漆塗兜等、
貴重な所蔵文化財が展示されています。
上野城には本丸より高い位置に、
城代屋敷が建てられた曲輪がありました。
「城代屋敷表門虎口」。
城代屋敷への正門入口。
豊臣との戦いで徳川が不利となった場合、
徳川家康が籠城する想定もあったので、
本来はこちらが本丸だったのかも?
筒井時代の天守もこちらだったらしい。
「城代屋敷跡」。
城代屋敷が建てられていた場所。
城代家老藤堂采女家が居館としました。
城代屋敷跡から南側へ下城。
「増田嘉兵衛翁頌徳碑」。
二の丸(?)にある増田嘉兵衛の頌徳碑。
増田は伊賀上野出身の実業家で、
幕末~明治に赤貧の身から商売で成功し、
横浜で資産家となった人物です。
上野公園を出て下から高石垣を拝見。
「高石垣(下から)」。
流石は藤堂高虎の築城といった高石垣。
攻め手の絶望感が伺い知れます。
但し高石垣は東側だけで、
中断したからか他は大した防御はなく、
大坂城に対抗という程ではありません。
完成形ではありませんので、
こんなものでしょうか?
津藩藤堂家は伊賀上野城を重要視し、
藤堂采女家に城代を世襲させますが、
当主が幼い場合は相続を認めず、
成長してから城代に就任させています。
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