三重県鈴鹿市 観音寺

観音寺は三重県鈴鹿市にある真言宗寺院。
幕末に侠客の大喧嘩がありました。


本堂」。
寛保3年(1793)建立の本堂
寛治元年(1087)に大和の律師法陵が、
観音大士のお告げにより、
大檜の下から観音像を発見し、
堂宇を建立して安置したのが始まり。
中世期には衰退していましたが、
春日局の異母弟荒沢順海により再興。
順海は伊勢参りの途上で失明してしまい、
この寺に祈願したところ全癒した為、
そのまま留まりました。
春日局も上洛途中に立ち寄り、
鐘楼の梵鐘と仏像5体を寄進しています。
本尊は十一面観世音菩薩像は秘仏。
春日局寄進の日天月天地天も、
本尊と共に祀られています。


観音堂」。
こちらも観音様を祀ってますが、
詳細はよくわかりません。


奥の院(護摩堂)」。
春日局寄進の三宝荒神と、
九面観世音を安置する奥の院


荒神山の決闘地跡(たぶん)」。
慶応2年4月8日。
神戸の長吉桑名の穴太徳次郎は、
縄張り争いから観音寺の裏山で決闘。
荒神山は長吉の縄張りでしたが、
桑名の大勢力である穴太に奪われ、
吉良の仁吉に助けを求めます。
仁吉はこれに答えて自らの手勢と、
清水次郎長の子分大政の加勢を加え、
50人程で荒神山に乗り込みますが、
穴太勢は150人程の大勢。
彼らは入り乱れて戦ったようで、
大政が穴太勢の角井門之助を討ち取る等、
大勢の穴太勢に勝利したようですが、
仁吉は鉄砲の弾で負傷し、
地元に帰る途中で死んでしまいます。
決闘地は観音寺の裏山という事ですが、
現在は裏山のようなものはありません。
しかも境内の鐘楼堂に銃跡があるようで、
境内でも戦闘があったと思われます。


吉良仁吉之碑」。
昭和26年に浪曲師廣沢虎造により、
境内に建立された追悼碑。
吉良の仁吉は清水次郎長の兄弟分で、
三河国吉良周辺を縄張りとした侠客。
義理に厚く義理に斃れた仁吉は、
人情物の講談や浪曲、映画等の題材となり、
一昔前は知らぬ人が少なかったという。

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