生月島は平戸北西にある大きな島で、
遣唐使の船が海を越えて帰って来る際に、
この島が見えた事で帰って来たと安堵し、
一息つけた為に[いきつき]となったという。
戦国時代の生月島南部の領主籠手田安経は、
洗礼を受けてキリシタンとなっており、
後にイエズス会宣教師が生月島で布教。
当時2500人だったという島民のうち、
800人程度が信者になっています。
その数は徐々に増えていったようで、
戦国末期には全島民が信者となりますが、
禁教令で迫害が始まると、
ある者は殉教したり、
ある者は島を離れたりしていますが、
島民の多くは密かに信仰を守り、
隠れキリシタンとなったようです。
生月島は江戸時代には平戸藩の領地となり、
初代藩主松浦鎮信はキリシタンを弾圧。
隠居した際は生月島を隠居領として、
島内に家臣を配置してこれを支配し、
鎮信の死後は生月奉行が置かれました。
「舘浦漁港」。
生月大橋の袂に位置する大きな漁港で、
西日本有数の巻網船団の基地でもあります。
江戸期には捕鯨が盛んに行われ、
鯨大尽と呼ばれた網元益富又左衛門は、
捕鯨で巨万の富を得ており、
平戸藩に献金する等した他に、
福岡藩や柳川藩に大名貸しを行いました。
幕末期に日本近海の鯨は減少し、
捕鯨業は廃れてしまいますが、
近代には巻網漁業が行われて、
最盛期には20を超える船団が在籍。
現在も3つの船団が在籍しており、
アジサバ類等の大衆魚の安定供給に貢献。
漁業で栄えた港町の雰囲気が残る港です。
「千人塚」。
正保の弾圧の犠牲者のものとされる塚。
平戸藩は正保2年(1645)に、
生月島の取り締まりを熊沢作右衛門に命じ、
多くの隠れキリシタンが処刑されます。
疑わしい者も含めて全て殺された為、
処刑の行われた舘浦の白浜は、
白い砂が全て血で赤く染まったという。
残った島の人々は彼らの遺骸を集め、
この場所に葬って松を植えたとされ、
後世に立派な老松となったようですが、
現在は枯れてしまったようで、
そこに石祠が建てられています。
■関連記事■
・長崎県平戸市 春日集落
状態良く残された潜伏キリシタン集落。
・長崎県平戸市 平戸城跡
平戸藩松浦家の居城跡。
・長崎県平戸市 松陰関連史跡
吉田松陰の平戸滞在関連史跡。