岡山県倉敷市 倉敷代官所跡(再訪)

倉敷代官所天領(幕府領)倉敷村に置かれ、
代官が派遣され周辺直轄領を統治しました。
江戸時代初期に備中松山代官所が置かれ、
倉敷村は天領の物資集積地となり、
水運で栄えていた場所でしたが、
松山の代官所が廃止されてからは、
倉敷は松山と共に備中松山藩領となります。
その後に再び天領となり支配所が置かれ、
更に庭瀬藩領、丹波亀山藩領、天領、
駿河田中藩領を経て四度天領となり、
以降は江戸時代を通じて天領となりました。
延享3年(1746)には倉敷代官所が設置され、
本格的に周辺幕府直轄地を支配し、
備中美作備後讃岐島嶼部等、
天領6万石を管轄しています。


倉敷アイビースクエア」。
代官所跡は明治20年に倉敷紡績が工場を建設。
平成5年に同工場が廃止された後、
チボリ公園を経て現在の複合施設となり、
倉紡記念館ホテルイベント会場店舗等、
各施設が配されて賑わっています。


天領倉敷代官所跡」碑。
構内にある跡碑。
倉敷代官所には10数人の役人が勤務し、
管轄する支配地の司法行政を担っており、
周辺諸藩の動静監視も行われたようです。


代官所内濠遺構」。
代官所当時の内堀だったもので、
数少ない代官所の遺構です。
構内には政務が行われた御役所の他、
代官公邸御蔵元締屋敷等が置かれ、
守護神として稲荷社が祀られていました。


代官所井戸」。
こちらも代官所時代の遺構。

慶応2年4月10日。
第二奇兵隊幹部立石孫一郎は、
隊士達を扇動して第二奇兵隊を脱走。
約100名を率いて天領倉敷に向かい、
この倉敷代官所を襲撃しました。
当時の代官所の役人は代官以下16人で、
このうち代官桜井久之介広島に出張中で、
6名の役人がこれに随伴。
3名は笠岡代官所詰(倉敷代官支配)で、
元締役田中東蔵も外泊していた為、
役人は5名であったとされます。
その他に宿直の雇人24名がいたようで、
襲撃の際には役人達は逃げ出しており、
唯一御手附役長谷川仙助のみが、
銃弾で負傷して後に死亡。
他に雇人8名が襲われて死亡しました。


アイビー学館」。
倉敷紡績(現クラボウ)の発祥工場で、
明治22年建設の貴重な歴史的建造物。
現在は展示場、イベント会場となっています。


中庭」。
ビヤガーデン会場となっている中庭
天保5年(1834)に倉敷代官古橋新左衛門が、
敷地内に教諭所明倫館を創建。
後の総理大臣犬養毅も学んでいます。
この辺りに明倫館の講堂があったようで、
倉敷浅尾騒動で役所が焼失した際は、
臨時の役所になったとのこと。

東側へ廻るとホテルの正門。

倉敷アイビースクエア(ホテル)」。
赤レンガの工場を改装したホテル。
いつか泊ってみたいものです。


代官所正門跡」。
南側にまわると搬入口がありますが、
ここが代官所の正門だったとのこと。

正門跡から路地を南へ。

牢屋跡」。
代官所の牢屋があった場所は、
生目八幡宮前の空地。
第二奇兵隊の襲撃者達は牢屋も襲い、
入牢していた7人を解放しています。
このうち4人が騒動に加わったようですが、
そのひとり百蔵はただの盗人で志はなく、
不埒な行いをした為に殺害されました。
また解放された勇蔵という男は、
裁可なき釈放は本意ではないと、
後に役人に自首したとのこと。

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