東山墓地にある瀧善三郎の墓所。
瀧家は岡山藩家老日置家の家臣で、
神戸事件の責任を一人で背負い、
諸外国の見守る中で見事に切腹を遂げ、
発足間もない新政府の危機を救いました。
「瀧家墓所」。
東山墓地にある瀧家の墓所。
善三郎の死後に長男瀧成太郎は、
岡山藩10代藩主池田章政に500石を賜り、
直参藩士となっていますが、
この墓所は成太郎家の墓所のようで、
元々の日置家家臣瀧家も存続しました。
「誠岩良忠居士」。
日置家家臣瀧善三郎正信の墓。
日置家の馬廻役を務めていたようで、
岡山藩が西宮警備を命じられた際に、
日置家家臣団2000名と共に出陣し、
兄の瀧源六郎と共に先鋒として三宮を通過。
その際に仏国水兵3人が行列を横切ろうとし、
これを善三郎が槍でこれを制止しますが、
水兵らは強引に横切ろうとした為
善三郎は槍で突きかかって水兵を負傷させます。
これに水兵らが発砲してきた為、
善三郎の部下らも応戦して銃撃戦に発展。
この状況に米英の軍隊も参戦しますが、
家老日置帯刀が射撃中止及び撤退を命じ、
死者が出る事なく戦闘は終了しました。
この状況に諸外国は居留地防衛を目的に、
神戸周辺を一時占領。
停泊する日本船舶も拿捕しています。
諸外国は在留外国人の安全保証と、
事件の責任者処刑を要求。
善三郎の行動は水兵の無礼への正当な行為で、
武士として当然のものでしたが、
発足間もない新政府は諸外国の圧力に屈し、
善三郎の切腹が決定しました。
切腹は兵庫の永福寺で行われており、
諸外国官吏、外国事務総裁伊達宗城、
同判事伊藤俊輔らの見守る中で、
古式に則った方法で見事に行われたとされ、
その様子は海外でも法じられています。
善三郎の遺骸は荼毘に付された後、
分骨されてこの東山の墓の他に、
京都の妙心寺塔中回春院、
芦屋森村の共同墓地(既に無し)に埋葬。
兵庫能福寺に供養塔があるようです。
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・岡山県岡山市 松琴寺/日置家墓所
瀧家は日置家の家臣でした。