岡山藩筆頭家老伊木家の歴代墓所は、
千力山墓所と長島墓所。
※他に14代が少林寺、15代が東山墓地、
初代と2代は兵庫県三木市にあります。
今回は千力山の墓所に訪問致します。
「興禅寺」。
家祖伊木忠次により三木に創建され、
菩提寺となった曹洞宗の寺院。
池田家の鳥取移封に伴い倉吉に移り、
後の岡山移封で佐山に移されますが、
3代当主伊木忠貞が虫明陣屋を設けると、
現在地に移されたようです。
寺名は勝入寺、全昌寺を経て、
忠貞の死後に興禅寺となった模様。
どうも現在は無住の寺の様子です。
千力山墓所はこの寺の山手。
それぞれの墓の場所は結構離れており、
まあまあの距離でバラバラですが、
若い代より紹介致します。
「備前州老伊木忠貞之墓(左)」、
「栄久院殿椿山保壽大姉 淑霊(右)」。
伊木家3代当主伊木忠貞の墓と、
忠貞の正室勝姫の墓。
2代伊木忠繁の三男として生まれ、
父の死去に伴い5歳で家督を相続します。
主家が鳥取へ転封を命じられると、
これに従い倉吉3万3000石を拝領。
岡山へ転封後は虫明を領しました。
56年間の長期間当主を務めますが、
参勤交代に随行した帰路、
東海道の川崎宿で病死しています。
怪力の持主であったとされ、
[千力様]と呼ばれていたとされ、
これが千力山の由来となりました。
「捐舘 瑞興院殿祥巖慈雲大居士 神儀」。
伊木家4代当主伊木忠親の墓。
3代忠貞の七男として生まれ、
父の急死に伴い家督を相続。
29年間当主を務めていますが、
元禄14年(1701)に赤穂事件が発生した際、
大石内蔵助の母が岡山藩の出身だった為、
3000石減封のうえ隠居しました。
5代伊木忠義、6代伊木忠興、7代伊木忠知は、
長島墓所に葬られています。
「諦觀院殿前長州顯徳常翁大居士(右)」、
「緑巖院殿保屋永祥大姉(左)」。
伊木家8代当主伊木忠福の墓と、
忠福正室治重姫の墓。
6代忠興の長男伊木忠芳の長男で、
7代忠知の養子となって家督を相続。
23年の当主在任後に死去しており、
家督は建部池田家からの養子が継ぎ、
9代伊木忠真となっています。
正室の治重姫は小堀家の出身で、
夫婦共に茶道に勤しんでいたという。
9代忠真、10代伊木忠識も長島墓所。
「高嶽院殿前豊州徳有芳鄴大居士」。
伊木家11代当主伊木忠順の墓。
7代忠知の七男菅実寧の子で、
10代忠識の急死で急遽家督を相続しますが、
11歳と幼少で就任しており、
7年後に18歳で病死しています。
「廣徳院殿前長州雲山泉龍大居士(右)」、
「有香院殿花顔微笑大姉(左)」。
伊木家12代当主伊木忠直の墓と、
忠直正室豊姫の墓。
分家当主伊木忠孰の三男に生まれ、
11代忠順の早逝で本家の家督を相続。
この忠直も5年後に18歳で早逝しています。
「廓性院殿前長州聘山英賢大居士」。
伊木家13代当主伊木忠正の墓。
岡山藩家老土倉一静の二男として生まれ、
12代忠直が病気を得て重篤となった為、
養子となってその死後に家督を相続。
しかしこの忠正も16歳で死去しており、
弟の助作が伊木忠澄として家督を継ぎました。
9代から当主の早世が続いており、
伊木家では家政も安定しなかったようですが、
14代忠澄の代になってようやく安定し、
動乱の幕末期を迎えています。
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伊木家14代当主伊木忠澄の墓所。