唐琴の瀬戸は牛窓と前島の間にある海峡。
牛窓は古くから西国航路の寄港地として栄え、
多くの舟が風待ち、潮待ちした場所。
万葉集や山家集にも詠まれており、
[牛窓千軒]と呼ばれた程に繁栄しました。
江戸時代に入ると北前船も寄港し、
朝鮮通信使の船団もこの地を使用。
更に発展して非常に賑やかであったという。
「御茶屋跡」。
岡山藩が設置した御茶屋があった場所。
御茶屋は寛永7年(1630)に建てられ、
幕府諸役人や大名衆の応接場とされますが、
天和2年(1682)より朝鮮通信使の接待にも使用。
それ以前は本蓮寺が使用されたようです。
御茶屋は維新後に廃止されて村有となりますが、
豪奢故に維持管理する事が難しくなり、
明治18年に名誉村長香川真一が買い取って、
取り壊された後に現在の建物を新築。
昭和34年に錦海塩業㈱の所有となり、
後に牛窓町へ譲渡されました。
長い間空き家となっていたようですが、
町民の希望でギャラリーへと改修。
平成27年に[御茶屋跡]と称しています。
写真は海側から撮影したもの。
「船着場跡」。
御茶屋跡下の小さな漁港(名前は不明)。
往時は朝鮮通信使の船や、
大名が乗る船が着岸した場所で、
すぐに御茶屋に入る事が出来たようです。
御茶屋跡から唐琴通りへ。
「街角ミュゼ牛窓文化館」。
大正4年築の旧牛窓銀行本店の建物。
後に中國銀行牛窓支店となり、
昭和55年まで使用されました。
現在は通りの文化を紹介する施設となり、
国の登録文化財として保存されています。
文化館左の路地を北に進んで御茶屋井戸へ。
「御茶屋井戸」。
牛窓には大きな河川がなく、
水の少ない土地柄だったようで、
水確保は重要な課題だったという。
岡山藩は承応3年(1654)にこの井戸を掘り、
御茶屋での接待に使用したようです。
井戸の底は深く、丸く大きく掘られ、
他の井戸が干上がったとしても、
この井戸だけは枯れなかったとのこと。
文化館まで戻り唐琴通りへ。
「しおまち唐琴通り」。
伝統的な建築物が多く残る唐琴通り。
土蔵や格子戸の町屋を見て歩けます。
唐琴通りを東側へ。
「神功皇后御縁 纜石」。
三韓征伐に向かう神功皇后の船団が、
この辺りに差し掛かった際、
巨大な牛鬼が行く手を阻んという。
すると住吉明神の化身である翁が現れ、
海牛を投げ飛ばしてこれを退治。
投げ飛ばされた牛鬼の胴体が前島となり、
首は黄島。尾は青島となったとのこと。
以降この辺りを牛転と呼ぶようになり、
それが牛窓に変化したと伝えられます。
この纜石は皇后の船を繋いだ石とされ、
大切に祀られているようです。
「牛窓灯籠堂跡」。
延宝年間に建造された灯篭堂跡で、
昭和63年に復元されたもの。
唐琴の瀬戸を航行する船舶の安全の為、
2代藩主池田綱政が設置しました。
「五香宮」。
神功皇后は上記のように牛鬼に襲われ、
住吉明神に救われていますが、
皇后はその御加護に感謝して、
この地にあった住吉社に参拝。
武運長久、航海安全、安産祈願を祈願し、
神前にて腹帯を召されたという。
帰還にもこの住吉宮に参拝しており、
戦勝に感謝して無事に出産した事も報告。
自らの鎧、冑、太刀等を奉納したとのこと。
後に海賊らの蛮行で住吉宮は荒廃しますが、
寛文7年(1667)に初代藩主池田光政が再建。
伏見の御香宮より勧請し、
京都府京都市 御香宮神社
神功皇后と応神天皇を合祀して以降、
五香宮と改称されたようです。
「唐琴の瀬戸」。
五香宮境内から望む唐琴の瀬戸。
カラカラと音がする程の速い流れから、
唐琴の名で呼ばれたともされます。
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朝鮮通信使の宿所のひとつ。
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朝鮮通信使の宿所のひとつ対潮楼。
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朝鮮通信使の本土初上陸地点。