清浄華院墓地にある姉小路公知の墓所。
姉小路家は平安時代末期、
左大臣三条実房の次男姉小路公宣が、
姉小路家を称したのに始まり、
6代後の室町時代初期に断絶しています。
その後200年以上の時を経て、
慶長18年(1613)に姉小路公景が再興。
公知はその17代当主でした。
「贈参議左中将藤原公知朝臣之墓」。
閑院流姉小路家17代当主姉小路公知の墓。
公知は16代姉小路公前を父とし、
尊攘派の公卿として米国との通商に反対。
廷臣八十八卿の主導的立場にありました。
文久2年には攘夷勅諚の副使として、
正使である三条実美と江戸へ下向。
同年に右近衛権少将に任じられ、
併せて国事御用掛も務めています。
三条と共に攘夷派公卿の急先鋒でしたが、
文久3年5月20日夜の朝議の帰途、
朔平門の付近で3人の刺客が襲撃。
公知は扇を振って応戦し、
刺客の刀を奪って撃退しますが、
頭部と胸部に重傷を負って帰宅。
翌日に自宅で死亡しました。
公知が奪って持ち帰った刀から、
薩摩の田中新兵衛が容疑者として浮上。
捕縛して取り調べを行いますが、
田中は隙を突いて自刃してしまい、
暗殺の真相は闇に葬られています。
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御所北側の朔平門の付近が事件現場。
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攘夷派の急先鋒だった三条実美の墓。