觀音寺陵より更に登って後月輪東山陵へ。
「後月輪東山陵」。
121代孝明天皇の円丘形状の御陵。
奥に英照皇太后の後月輪東北陵もあります。
孝明天皇は仁孝天皇の第四皇子に生まれ、
仁孝天皇の崩御後に即位しました。
孝明天皇は勤皇志士達の崇拝対象となり、
幕府の弱体化で朝廷の権威は高まりますが、
孝明天皇自体は幕府との共存が本位であり、
京都守護職の松平容保を信頼する傍ら、
尊攘派(特に長州)を嫌っていたようです。
幕末において[勅]が何より重要で、
それが本人の意思かどうかは別として、
その権威が政治利用されるに至る訳で、
幕末史の主役は孝明天皇とも云えます。
その死のタイミングから毒殺説が根強く、
明治天皇すり替え説などにも繋がりますが、
その全ては科学的根拠のないもので、
既に結論が出ている陰謀論となっています。
しかし現在も政治利用され続けられており、
その説を唱え続ける人達が、
どのような思想を持つ人かを調べれば、
おのずとその理由がわかる訳ですね。
この孝明天皇の御陵より古式に改められ、
仏式葬の石塔から円丘形状となっています。
これは文久の修陵の山陵奉行戸田忠至が、
古式での埋葬での回帰を建言したもので、
後堀河天皇以来の円丘で築かれました。
※葬儀は仏式にて執り行われています。
次代の明治天皇から昭和天皇までは、
上円下方墳が採用されており、
天智天皇の山科陵を参考にされました。
※後に上円下方墳ではなく、
八角墳であった事が判明されています。
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