久坂玄瑞は藩医久坂良迪の三男で、
俊英と知られた久坂玄機の弟でした。
兄玄機は緒方洪庵の適塾で塾頭を務め、
藩の医学校好生館の教授に任じられ、
藩内の種痘実施に大きく貢献しました。
更には海外事情や西洋軍事にも通じ、
多くの西洋軍学書も翻訳。
玄瑞の思想に多大な影響を与えますが、
激務故か病を得てしまいます。
それでも海防に関して意見を求められると、
病床ながら藩主毛利敬親に意見書を建白。
これが祟って嘉永7年に死去しました。
そのショック故か父良迪も程なく死去し、
その前年に母の富も死去していた為、
玄瑞は天涯孤独の身となっています。
「久坂玄瑞誕生地」。
平安古町にある久坂玄瑞誕生地。
藩医久坂良迪宅のあった場所で、
玄瑞はここで生まれ育ちました。
父兄を失った玄瑞は家督を継ぎ、
頭を剃って藩医となりますが、
好生館の居寮生となった為、
長く一人暮らしはしてない模様。
更には吉田松陰の妹文を娶り、
吉田家の居候となりましたし、
以降は国事に明け暮れています。
「久坂玄瑞君追憶碑」。
中央に建つ三条実美の歌が刻まれた碑。
九重のみはしのちりをはらはむと
こゝろも身をもうちくたきたる
昭和14年に陸軍中将藤田鴻輔らが、
発起して建立されたもので、
禁門の変で自刃した久坂を追悼し、
三条が詠じた和歌が彫られています。
揮毫は三条の三男三条公輝によるもので、
毛利元昭の篆額が付けられました。
「贈正四位久坂玄瑞先生事蹟」碑。
追憶碑の左側にある碑で、
こちらも藤田鴻輔らの建立。
「久坂玄瑞先生遺詠」碑。
右側にある亀趺台座付の歌碑で、
久坂が詠んだ和歌が刻まれています。
けふもまた知られぬ露の命もて
千年も照らす月を見るかな
こちらも藤田鴻輔らの建立。
この藤田という人物ですが、
多くの長州志士の顕彰碑を建てており、
彼らを尊敬していたようです。
戦時中の供出で今は陶像となっていますが、
下関にあった高杉晋作の銅像も、
彼が建立したものでした。
久坂玄瑞は松下村塾で頭角を現し、
高杉晋作と共に双璧と称され、
後に尊皇攘夷運動の首魁となります。
長井雅楽を失脚させて藩論を攘夷に覆し、
英国公使館焼討を実行した他、
朝廷工作によって幕府に攘夷を迫り、
光明寺党を結成して攘夷を断行。
これら久坂による一連の行動は、
順調に進むかに思われましたが、
八月十八日の政変で情勢は変わり、
池田屋事件を経て禁門の変が勃発します。
久坂は鷹司輔煕に参内を嘆願しますが、
これを拒絶された為、
同志寺島忠三郎と刺し違えて自刃。
享年25歳という若さでした。
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久坂が自刃した鷹司邸の跡地。
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久坂玄瑞の墓があります。
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