鷹司家は五摂家のひとつ。
五摂家筆頭近衛家の庶流で、
近衛家実の四男鷹司兼平を祖とします。
12代続いた後に一時断絶しますが、
二条晴良の三男鷹司信房が再興。
織田信長や豊臣秀吉と親しくし、
徳川家にも3人の御台所を嫁がせました。
※3代徳川家光の御台所孝子(本理院)、
5代川綱吉の御台所信子(浄光院)、
13代徳川家定の正室任子(天親院)。
※※任子は家定(家祥)の世子時代に嫁ぎ、
家定が将軍になる前に死去。
正確には御台所ではありません。
「鷹司邸跡」。
鷹司家の邸宅跡は境町御門を入って右側。
残念ながら遺構は残っていません。
この辺りで久坂玄瑞、寺島忠三郎が自刃し、
入江九一が戦死したと思われますが、
正確な位置は判りません。
23代鷹司政通は天皇の絶大な信頼を得て、
約33年の長期間関白を続けており、
高齢の為に幾度か辞任を上奏しますが、
留保され続けて安政3年にようやく辞任。
但し内覧には留まり続けて、
異例の太閤の称号を天皇より与えられます。
当初は開国を容認する姿勢を示し、
米国にも好印象を持っていましたが、
孝明天皇の強い攘夷思想と意見が合わず、
安政5年には内覧を辞任。
明治元年に死去しました。
24代鷹司輔煕は攘夷派だったようで、
戊午の密勅に右大臣として関与し、
安政の大獄で辞官させられます。
文久2年に復帰して国事御用掛に任じられ、
翌年には関白に就任。
関白在任中は長州寄りではありましたが、
政局に積極的に関与する事は無く、
八月十八日の政変後は関白を免ぜられ、
翌元治元年の禁門の変では、
鷹司邸に久坂ら長州勢が立て籠もり、
屋敷が炎上する事態となります。
更に輔煕は謹慎処分となっており、
許されたのは孝明天皇の崩御後で、
後に新政府の義定に就任。
明治11年に死去しました。
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