山口県山口市 高嶺城跡

高嶺城戦国時代に築城された山城
大内氏山口を本拠とした際に、
京都を模した山口の街並みを構築しますが、
この為に要塞的な城は築かれず、
街の中心に居館が建てられていました。
大内氏は最盛期には中国及び北九州を支配し、
その本拠の防御は必要ありませんでしたが、
陶晴賢の謀反で16代当主大内義隆が討たれ、
その陶晴賢毛利元就に討たれた為、
17代当主大内義長は高嶺城の築城を開始。
毛利家の侵攻に備えました。


高嶺城地図(現地案内板より)」。
本拠だった大内氏館詰城として、
鴻ノ峰(標高337m)の頂上部に築城。
別名として鴻ノ峰城とも呼ばれています。


大内氏遺跡 高嶺城跡」碑。
木戸孝允を祀る木戸神社より、
山手の木戸公園を経て約2.5㎞登ると、
テレビの中継局が集まっている場所があり、
※NHK、KRY、TYS。
そこまでは車で登って来る事が出来ます。


ここから徒歩。
訪問日の前週は寒波だった為、
かかなり残っていました。
麓には全く雪が無かったので、
軽い気持ちで訪問したのですが、
流石に標高が高いと温度が違います。


地図というのは平面で描かれている為、
その高低差が判りかねます。
結構な山道だったので、
トレッキングシューズ履いてて助かりました。


広大な郭」。
出発地点と主郭の中間地点に位置する郭。
広い空間は居住を意識していたとされます。


広い郭の先は比較的なだらかな道。
勿論道は峰の上なので広くはありません。


少し進むと主郭に到着。
主郭は高台となっており、
これまでは石垣の無い切岸の郭ですが、
主郭には石垣が組まれています。

まずは石垣を拝見。

主郭東側の石垣」。
主郭の周りは石垣だったようで、
崩れている箇所もありますが、
綺麗に残っている場所もありました。
雪が無ければもっと確認出来たかもです。


主郭南側の石垣」。
二段となっている事が特徴で、
当時はそれ程高い石垣を築く技術がなく、
この様に段築にしていたとのこと。
南側は主郭正門にあたる為に、
比較的大きな鏡石が置かれています。


主郭」。
主郭には建物が建っていたようで、
礎石の配置から敷地の殆どを使い、
大きな屋敷が建てられていたとされます。

高嶺城築城開始の翌年には、
毛利家が山口に侵攻してきた為、
大内義長は高嶺城に籠城せずに逃走。
長門国勝山城まで逃げて籠城しますが、
毛利勢に包囲されて降伏し、
義長は功山寺にて自刃しました。
高嶺城は毛利家により築城が再開され、
完成後は山口の支配拠点となり、
市川経好が城代を務めています。
その後の永禄12年(1569)には、
九州への侵攻中で手薄となった山口を、
大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が襲撃。
経好も九州に出陣中であった為、
城代不在の高嶺城は攻撃されますが、
内藤就藤山県元重粟屋元種等、
留守を守る僅かな兵や、
経好の正室市川の局が奮戦しました。
やがて知らせを聞いた元就が戻り、
劣勢となった輝弘は敗北して自刃。
※大内輝弘の乱。
高嶺城は毛利家の危機を救っており、
関ヶ原の戦い後の防長移封の際、
その根拠地候補となりましたが、
結局は萩城が毛利家の本拠となります。
その後に一国一城令により破棄。
幕末に山口政事堂(山口城)が築城されると、
その詰めの城とされました。

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