瀬戸内海を航行する船を取り締まる番所が、
平安時代頃より長門国、周防国に設置され、
下関、中関、上関 と呼ばれました。
上関海峡は極端に狭い海峡で、
上関と北側の室津との間わずか170m。
流れが速い為に潮待ちしなければならず、
北前船の寄港地として繁栄します。
この重要な港を長州藩は直轄地としており、
長州藩の財政を潤す一端を担っていました。
そして江戸時代末期に入ると、
ここを防備する為に台場が築かれます。
地図の右上部が室津で左が長島(上関)。
現在は上関大橋が掛かっていますが、
当時は舟で行き来していました。
※室津側には擬洋風建築の四階楼や、
吉田松陰詩碑があります(記事はこちら)。
赤丸の位置が東山台場跡。
室津側から見た上関大橋。
矢印の位置が東山台場跡。
橋を渡ってすぐ。
台場跡へ続く道がありました。
車を止められるスペースがあります。
「東山台場跡」。
登ると小さな広場のようになっており、
瀬戸内海の絶景が広がります。
吉田松陰もこの台場を視察しています。
慶応2年6月6(7)日。
幕府軍艦「富士山丸(長崎丸とも)」が、
室津の白浦を砲撃していますが、
その際に迎撃したという記録は無し。
既に台場は撤去されていたのかも??
■関連記事■
・熊毛郡上関町 四階楼と吉田松陰詩碑
小方謙九郎が建てた擬洋風建築。
・光市 室積台場跡
外国船打払の為に設置された台場跡。
・大島戦争(大島口の戦い)①
富士山丸は室津に砲撃を加えています。