一関藩は伊達正宗の十男伊達宗勝が、
仙台藩より3万石を分地され、
大名となって立藩したのが始まり。
幕府との繋がりが強かった宗勝は、
放蕩三昧の藩主伊達綱宗を強制隠居させ、
幼い次期藩主伊達綱村の後見人として、
宗家である仙台藩を牛耳っていましたが、
伊達騒動により重臣の刃傷事件にまで発展。
この責で処罰されて土佐藩預かりとなり、
一関藩は改易となりました。
後に田村家が再び一関藩を立藩。
田村家は三春を領した大名家でしたが、
豊臣秀吉の奥州仕置により改易されており、
田村家の娘であった正宗の正室陽徳院は、
2代藩主伊達忠宗に再興を嘆願。
陽徳院は86歳で死去していますが、
忠宗は遺言を容れて田村家を再興させ、
田村家に岩沼藩を立藩させた後、
次代田村建顕を一関に移封させました。
当時の城下町。
中央上が陣屋で左側が釣山。
釣山北側に武家屋敷が並んでいました。
「一関陣屋跡」。
陣屋跡は現在裁判所となっていますが、
残念ながら遺構や跡碑などはありません。
「釣山公園」。
陣屋背後にそびえる釣山は、
一関陣屋が一望できる為、
藩政期には入山が規制されていたという。
公園には沢山の顕彰碑が建てられています。
「維徳維馨(森中和(包荒先生)遺徳碑)」。
森中和は幕末から明治初期の郷土の功労者。
岩手模範学校(現岩手大学)校長だった人物で、
退職後は学習塾を開設して、
漢学や漢詩を指導していたようです。
「高平小五郎胸像」。
日露戦争講和会議で外相小村寿太郎と共に、
ポーツマス条約を締結させた人物。
後に駐米大使となり「高平・ルート協定」で、
日米関係の安定を保ちました。
彼は元藩士で戊辰戦争にも従軍しています。
釣山からは市街地がよく望めます。
桜の名所でもあるようで、
訪問時には花見客がちらほら見えました。
「千畳敷」と「田村神社」。
山頂は千畳敷と呼ばれる平坦な場所です。
釣山は戦国以前には要塞であったとされ、
この千畳敷が本丸であったらしい。
田村家がこの地を離れて東京に移住し、
大正期に再び東京から一関に戻った際に、
坂上田村麻呂を祀る社殿を移しました。
当時は豪華な社殿であったようですが、
戦後に心ない人々により破壊されたという。
一関藩は仙台藩と共に奥羽越列藩同盟に参加。
秋田戦争を戦っています。
【一関藩】
藩庁:一関陣屋
藩主家:田村家
分類:3万石、外様大名(仙台藩支藩)
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伊達宗家仙台藩の藩庁。
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仙台藩の支藩で一国一城の例外。
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