長州毛利家と会津松平家は縁者であった

犬猿の仲とされる会津藩長州藩ですが、
別に長く因縁があるわけではなく、
八月十八日の政変禁門の変など、
幕末期の一連の事件により、
遺恨を残しただけのようです。
長州藩は始めから反幕だった訳ではなく、
むしろ幕府に忠誠を誓っていたり、
徳川家譜代藩と婚姻を行っていました。

会津松平家とも婚姻を行っており、
長州毛利家と会津松平家は、
実は縁者だったというわけです。

長州藩から会津松平家に輿入れしたのは、
誠姫(のぶひめ)というお姫様でした。
誠姫は6代藩主毛利宗広の娘で、
2代藩主の曾孫毛利重広の許婚となりますが、
輿入れ前に重広が死去。
これに会津藩5代松平公頌は正室を亡くし、
当時ちょうど一人身だった為、
その継室(後妻)として縁談が進められ、
両家は縁者(姻戚)になります。

・・が、残念ながら2人の間に子は無く、
誠姫も19歳で病没してしまいます。
もし2人の間に男子が産まれて、
その子が会津藩主にでもなっていれば、
両家はもう少し親密になっていたのかな?
そうなっていたら幕末の両藩の関係は、
どうなっていたのでしょう?

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