大聖寺藩は加賀藩の支藩。
加賀藩2代藩主前田利常が家督を譲る際、
三男前田利治に7万石を与えて立藩。
同じく次男前田利次に10万石を与え、
富山藩も立藩しています。
大聖寺には大聖寺城があったのですが、
一国一城令により廃城にされており、
陣屋は城のあった錦城山の麓に置かれ、
江戸期を通じて藩庁とされました。
大聖寺駅を降りてはじめに目につくのが、
「古久谷発祥之地」と書かれた大きな塔。
領内久谷村で良質の陶石が発見された事で、
藩士後藤才次郎を有田で技能を習得させ、
殖産政策として始められたのが、
古久谷と呼ばれる陶器です。
しかしその開始から約50年後、
突如として廃窯されてしまいます。
※廃窯の理由ははっきりしないという。
説として伊万里焼の台頭、
藩推進派の不在、経営不振、技術者不足、
幕府の嫌疑など。
その約百年後に加賀藩が青木木米を招き、
金沢の春日山に春日山窯を開かせ、
沢山の窯が加賀地方一帯広がります。
これが再興九谷と呼ばれる陶器で、
加賀藩の重要な産業となりました。
維新後に久谷焼は欧米に輸出され、
西洋の型押技法が導入されると、
量産化されるようになります。
これが現在の新久谷とのこと。
山ノ下寺院群へ。
熊坂川に沿った7つの寺と、
1つの神社が並ぶ区域で、
越前との国境付近に意識的に、
寺社を集めたとされています。
「大聖寺藩移築関所門」。
寺院群のひとつ宗壽寺にある山門で、
国境に置かれた関所が、
維新後に廃止された際に、
宗壽寺に移築されたとのことです。
「大聖寺藩関所址」。
大聖寺藩成立以前からあった国境の関所で、
藩成立後は大聖寺藩が管理運営し、
通常は門番が配備されるのみでしたが、
有事は加賀藩兵派遣が取り決められ、
前田領を守るようになっていたという。
清水次郎長の一行がこの関所を通った際、
銃器を所持していたので、
咎められたという話があります。
関所跡から一旦戻って熊坂川沿いを北へ。
「大手門橋」。
大聖寺陣屋の大手門橋。
当時は木製の橋が架かっていました。
陣屋跡は加賀市立錦城小学校の敷地。
「江沼神社」。
錦城小学校に北側にある神社で、
陣屋の敷地内にあったもの。
3代藩主前田利直の時代に、
天満天神社を創建したのがはじまり。
維新後に藩祖を祀る松嶋神社を、
江沼神社と改称したようで、
後に天満天神社も合祀され、
県社に昇格しました。
境内の庭園は陣屋時代のもの。
あまり手入れはされていないようです。
他にも藩主の休息所であった長流亭や、
14代前田利鬯の邸宅もあったようですが、
気が付かず未訪問となってしまいました。
錦城小学校の西側へ。
大聖寺陣屋の前身大聖寺城跡があります。
「大聖寺城跡」。
城は陣屋裏手の錦城山にありましたが、
陣屋が建設されてからは、
錦城山の入山が禁止されています。
長い年月で自然回帰してはいますが、
比較的保存状態が良い城跡となっています。
「贋金造りの洞穴」。
北越戦争での弾薬供出を命じられた藩は、
この洞穴の中で贋金を製造したようです。
銀製品を溶かして弐歩金を造り、
山城温泉の湯で加工して贋金を制作し、
この贋金で弾薬を治める事が出来ましたが、
後に露見し責任者市橋波江は切腹。
この事件はパトロン事件と呼ばれました。
藩は罪を一身に背負った市橋に報いる為、
子息には倍の禄を与えたそうです。
この後で城の本丸まで登ったのですが、
何故か写真DATAが消えていました。
残念。
大聖寺藩は9代藩主前田利之の時代に、
7万石から10万石に高直しされています。
10万石は諸藩中最大の陣屋大名であり、
10万石の支藩も最大規模でした。
やはり加賀藩は支藩もスケールが違います。
前記しましたが幕末の大聖寺藩は、
12、13代が相次いで死去しています。
実際には12代利義の死を公表する前に、
13代前田利行も死去しましたので、
大聖寺藩は無嫡断絶の危機となりました。
そこで利行の死を秘匿し、
富山藩の前田利聲と七日市藩の前田利豁が、
名代となり13代の襲封を届け、
すぐに利行の隠居願いを、
加賀藩主前田斉泰が提出。
14代利鬯を藩主に据えています。
やっぱ困った時には同族ですね。
【大聖寺藩】
藩庁:大聖寺陣屋
藩主家:利治流前田家
分類:10万石、外様大名(加賀藩支藩)
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