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天草四郎率いるキリシタン一揆勢は、
幕府軍に皆殺しにされて島原の乱は終結。
乱の責任で島原藩松倉家は改易となり、
藩主松倉勝家は斬首されることとなります。
江戸時代を通じて大名の斬首はこれだけで、
それ程の重大事件だったのでしょう。
代わって入封したのは譜代大名の高力忠房。
3代将軍徳川家光の信頼厚く、
島原の乱で荒廃した島原の復興を任せられ、
忠房はその期待に答えたようで、
年貢免除や移民奨励等の政策を行い、
見事に島原を復興させています。
しかし跡を継いだ2代藩主高力隆長は、
父忠房の善政を範とせずに悪政を敷き、
領民の訴えで改易されました。
幕府のその迅速な対応は、
島原の乱の記憶によるものでしょう。
その後は福知山藩から深溝松平家が入封し、
減税や農政改革で領内の安定化を図り、
以後5代に渡り安定的に経営しました。
代わって2代ほど戸田家が入封した後、
再び深溝松平家が島原に戻って以降は、
廃藩まで藩主家として統治しています。
「御馬見所」。
幕末の藩主8代松平忠和が、
藩兵の訓練状況視察に使用したもので、
元々三ノ丸にあったものを本丸跡に移築。
この御馬見所があった場所は、
現在も調練場と呼ばれているとのこと。
「丑寅三重櫓」。
民具資料館として使用されています。
本丸の3つの三重櫓は全て復元されており、
天守を含む4つの櫓がある風景は珍しい。
本丸の下層部は梅園となっています。
ちょうど良い季節に訪問できたようで、
梅の香りが心地よい。
「キリシタン墓碑」。
出土したキリシタンの墓碑を集めたもの。
中央のくりぬかれた半円のものは、
手水鉢に転用されていたらしい。
本丸虎口跡にも梅が植えられています。
大手門は整備されているものですが、
関係なしに梅が植えられているは珍しい。
迷路のようになってるらしいのですが、
梅の木ばかりでなにがなんだか・・・。
「廊下橋跡」。
本丸と外部を結ぶ唯一の橋で、
廊下橋の架かっていた場所。
向こう側が二ノ丸跡で、
現在は島原文化会館が建てられています。
島原城は堀の中を歩けます。
二ノ丸跡には遺構は無いようなので、
この堀を歩いてみました。
堀から城を見上げれるってのも珍しい。
左側が二ノ丸跡で石垣の向こうが三ノ丸跡。
現在島原市立第一小学校となっています。
堀の中に日本庭園があるのはシュール。
再び本丸へ(駐車場が本丸なんで・・)。
せっかくなんで天守閣に登ってみました。
1Fはキリシタン資料、
2Fは島原藩関係資料、
3Fは民族資料となっています。
天守閣からの眺め。
遥か海の向こうに熊本が見えました。
幕末の島原藩は安政6年に、
5代藩主松平忠精が死去し、
6代忠淳、7代忠愛と早世が続きます。
最後の藩主忠和は徳川斉昭の十六男で、
15代将軍徳川慶喜の異母弟。
藩論は佐幕の方針を執っていますが、
藩内で尊皇攘夷派[激烈隊]が組織され、
藩論を尊攘に転向させようとしますが、
保守派に阻まれて失敗しています。
尊攘派藩士らの多くは脱藩して上京し、
京都等で尊皇攘夷運動を展開。
保母建や尾崎靖らは天誅組に参加し、
梅村真守や伊藤益荒らは、
天狗党の乱に参加しました。
丸山作楽は私塾神習処を開き、
藩内の尊攘派藩士を増やしますが、
藩は丸山を忌避して謹慎処分とし、
尊攘派は保守派松坂丈左衛門を暗殺。
藩論を転向させるまでには至らず、
幕府瓦解まで佐幕的な行動を行っています。
鳥羽伏見の戦いの後に新政府に恭順。
戊辰戦争に159名の藩兵を送り、
秋田戦争で4名の戦死者を出しました。
島原城は他城には無い不思議な箇所が多い。
特に本丸はすべての櫓を復元しており、
当時のイメージが違和感なく想像できます。
他の城もこれくらいして欲しいもの。
高石垣も見事で堀の中に入れるのも良い。
石垣を一部壊して本丸に入れるのは、
ある意味ですごく良かったのかも。
あまり期待せずに訪問したのですが、
大変満足した城郭訪問となりました。
【島原藩】
藩庁:島原城
藩主家:深溝松平家
分類:6万5000石、譜代大名
①/②
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