大分市街中央部の丘陵に、
大分縣護國神社があります。
ブログで何度も記していますが護國神社は、
明治政府が創建したものではありません。
殆どは幕末、明治初期に創設されたもので、
藩、部隊、土地の名主がその創設者。
祀られる祭神も隊の戦死者であったり、
土地の出身者であったりと、
それぞれ限定的でした。
今回訪問した大分縣護國神社の場合は、
大分県初代県令森下景端によって、
佐賀の乱と台湾出兵の犠牲者と、
大分出身の志士を祀る為に、
招魂社を創建したことに始まります。
「大分縣護國神社拝殿」。
明治8年に創建された招魂社は、
内務省令により護國神社に改正され、
内務大臣指定の護國神社となりました。
元々この大分縣護國神社のある松栄山は、
府内藩主松平近儔が祖先の松平近正を、
近正大明神として祀っていた場所。
明治2年に遷座して跡地となった場所に、
招魂社が建てられたという経緯があります。
松栄山は松平家が栄えるという意とのこと。
指定護國神社は幕末維新期だけではなく、
以後の戦役の英霊が合祀されていますので、
特攻隊や歩兵第47聯隊関係の展示もあり、
神社ながらミリタリー色が強い。
これはブログのテーマから外れますので、
拝殿に参拝を済ませてすぐに退散し、
北側にある招魂場へ。
駐車場北側に招魂場や展望台があります。
南側の社殿は後から造営されたもの。
「西南役軍人墓地」。
西南戦争で戦死した政府軍214柱の墓地。
青森、秋田、福島など、
他県の出身者が多いようで、
彼らも大分縣護國神社に合祀されています。
「招魂社跡」。
創建当時の社殿があった場所。
現在も合祀祭が行われているとのこと。
「西南役警察官墓地」。
階段中腹あたりで枝分かれする階段先に、
西南戦争で戦死した警察官墓地があります。
木々に囲まれた招魂場に、
日の光が差して神々しい雰囲気。
103柱の警視隊の招魂墓が並んでいます。
警視隊は明治10年の西南戦争の際、
東京警視本署が編成した部隊で、
本来は治安維持や犯罪の取り締まりなど、
後方支援が目的とした部隊でしたが、
隊の大多数が士族出身であった為、
正規の政府軍陸軍兵より勇猛でした。
後方支援の為に装備は旧式銃でしたが、
彼らは率先して抜刀して戦ったとされます。
「一等大警部佐川官兵衛墓(最左)」他、
警部クラスの招魂墓。
佐川官兵衛は元会津藩家老で、
「鬼佐川」と官軍に恐れられた人物。
特筆するべきは賊軍の将であった佐川が、
薩摩、長州出身者と同等に並んでいる事。
佐川は廃藩置県により斗南藩が消滅した後、
警視庁に出仕して西南戦争に出征。
巡査200名を従えて、
豊後竹田から坂梨へ向かいます。
佐川隊は南阿蘇二重峠の西郷軍を攻撃し、
壮絶な白兵戦を展開。
西郷軍の小隊長鎌田雄一郎と切り結び、
横合いからの銃撃で絶命しました。
「大分縣十等警部藤丸宗造之墓」。
他の警察官の墓と少し離れて建つ墓。
藤丸宗造は西南戦争時に重岡分署に赴任し、
西郷軍の延岡侵入を察知して政府軍へ報告。
その帰路に捕らえられ、
斬首されて殉職しました。
大分縣護國神社は地元殉死者を祀りますが、
各地から出征してきたことにより、
神霊は他地域出身者が多く含まれています。
とはいえ豊後の防備を目的として派遣され、
大分を守って戦死したわけですから、
その本質から外れたものではありません。
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