京都所司代は京都の治安維持機関で、
その長官の役職名でもありました。
3万石以上の譜代大名が任命され、
与力50騎、同心100人が実務にあたり、
治安維持、朝廷や諸大名の監察監視と、
京都市中の民政を担当していました。
京都所司代は京都支配の中枢でしたが、
後に下位機関として京都町奉行が置かれ、
多くの実務が町奉行の管轄に移行した為、
次第に地位的な意味合いが強くなり、
老中への出世の通過点となっています。
京都上京区二条城北側周辺。
所司代屋敷は二条城の北側にありました。
「京都所司代跡」。
現在の京都所司代屋敷跡は、
京都市立待賢幼稚園の敷地です。
龍野藩藩主脇坂安宅は嘉永4年に就任し、
在職中に発生した御所の火災の後、
御所の復旧に尽力した為、
孝明天皇より茶室を拝領されており、
安政4年まで所司代を務めました。
代わって岡崎藩の本多忠民が1年弱就任し、
次に小浜藩藩主酒井忠義が就任。
忠義の就任中に安政の大獄を迎え、
捕縛は浪人や儒者、諸藩士や公卿に至り、
忠義も所司代として任務を遂行。
桜田門外の変後に事態は収束していますが、
文久2年に一橋慶喜が将軍後見職に、
松平春嶽が政事総裁職に就任すると、
忠義は失政を問われ罷免させられています。
代わって宮津藩の松平宗秀が就任しますが、
宗秀は安政の大獄に深く関わっていた為、
朝廷内から反対されて赴任する事ができず、
姫路藩藩主酒井忠績が所司代を代行。
結局は長岡藩藩主牧野忠恭が就任しますが、
長岡藩のような小藩では、
昨今の争乱に対応できないと辞任します。
以後は10万石淀藩藩主稲葉正邦、
11万石桑名藩藩主松平定敬と続きました。
最後の所司代である桑名藩主松平定敬は、
京都守護職となった実兄の松平容保や、
将軍後見職となった一橋慶喜と連携し、
一会桑政権を形成しています。
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