江戸時代初期の京都とその周辺の行政は、
京都所司代と京都郡代が行っていましたが、
※京都郡代は後に京都代官となっています。
その職務が多忙となってきた為、
寛文8年に伏見奉行を含めた再編が成され、
下位機関として京都町奉行が置かれ、
市中と天領や寺社領の支配が行われます。
江戸町奉行、大坂町奉行と同様に、
月番制で東西2ヶ所に奉行所が設置され、
西町奉行所、東町奉行所の両町奉行所が、
1ヶ月ごとに訴訟などを受け付けました。
「京都市立中京中学校」。
京都西町奉行所のあった場所は、
現在中京中学校の敷地となっています。
与力20騎と同心50人で運営されており、
その膨大な職務をこなす為に、
他の町奉行と同様に同心が目明し等を雇い、
犯罪の密告や探索を行わせました。
「西町奉行所跡」碑。
中京中学校の西側千本通り沿いにあります。
京都西町奉行所は、
安政の大獄の弾圧を職務として行っており、
その報復として天誅が行われ、
奉行所雇いの目明し猿の文吉が襲われ、
指示を出していた島田左近も殺されました。
この事態に両町奉行所は、
西町奉行所与力渡辺金三郎と、
同心上田助之丞、東町奉行所同心森孫六、
大河原十蔵を江戸へ避難させますが、
4人は石部宿に宿泊していたところを、
30人以上の謎の集団に襲われ、
惨殺されてしまいます。
与力、同心の殺害は奉行所や、
上位機関である所司代の権威失墜であり、
この事態を重くみた幕府は、
京都守護職設置を検討するに至りました。
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