小倉戦争は高杉晋作の最後の戦いですが、
戦争は晋作が役職を解かれた後も続いています。
第二次長州征伐で始めた長州藩との戦いは、
熊本藩が友軍の日和見主義に嫌って退却。
小倉口総督小笠原長行が逃げ去った後は、
小倉城を自ら炎上させ、
長州藩と小倉藩の私戦として続けられました。
島村志津摩は金辺峠で長州軍を迎え撃ち、
長州藩の大軍を手こずらせますが、
多勢に無勢で小倉藩は止戦交渉を申し出ます。
長州藩は勝者の立場で条件を要求。
藩主世子を人質に差し出すように求めますが、
しかしそれは武士には飲めぬ条件。
交渉決裂かと思われたときに、
島村は「開国」の策を提言します。
ここで云う開国は鎖国をやめる意味ではなく、
所領すべてを放棄して他に移住するということ。
これを長州藩に申し入れました。
ですが長州藩はこれを受ける事ができません。
何故なら既に止戦の勅許も出され、
私戦化している状態で開国を受けたとなると、
長州藩に領土的野心があると非難され、
人心は長州藩から離れてしまう。
人質の件は白紙に戻さざるをえなくなり、
島村の策は成功して小倉戦争は終結します。
小倉藩は藩庁を香春に移して香春藩を立藩。
戦費で財源を使い果たしており、
収入の多い企救郡は失って藩財政は困窮。
島村は家老として藩の建て直しに奔走しました。
財政困難な中で戊辰戦争にも出兵。
その後、藩再建の道筋を定めて役を辞任します。
晩年は二崎で暮らしてそこで葬られましたが、
没後19年後に有志らが島村の功績から、
藩公の菩提寺に改葬し後世にその名を伝えます。
・・・この島村志津摩。
ウィキペディアにも載っていません。
※2014年当時。現在は掲載されています。
しかし敗軍の将にも英雄はいるのです。
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・福岡県北九州市 福聚寺(小笠原家&島村志津摩の墓所)
島村の墓所は元藩主の菩提寺である福聚寺。
・福岡県北九州市 志津摩橋と中野橋
島村の名が付いた橋。
・福岡県田川郡 金辺峠
金辺峠を最後の砦としました 。