千葉県佐倉市 佐倉順天堂記念館

佐倉で最後に訪れたのは佐倉順天堂記念館
佐倉順天堂の一部が保存され、
当時の医療器具等が展示されています。


佐倉順天堂記念館」。
開業当時は道路向かいにありましたが、
安政5年にここに移転しており、
その後に拡充されました。
現在残る建物は診療棟の一部にあたります。


佐藤泰然先生」胸像。
庭には佐藤泰然の胸像や、
関係者のレリーフが置かれています。


松本良順先生(右)」、
林董先生(左)」レリーフ。
松本良順は泰然の次男で、
蘭医松本良甫の養嫡子となり、
幕府より長崎伝習之御用を命じられ、
長崎海軍伝習所で蘭医ポンペに学びました。
後に奥詰医師となり西洋医学所頭取に就任。
侍医として徳川家茂の治療も行っています。
また新撰組近藤勇とも親交があり、
負傷者や病気の隊士を治療。
戊辰戦争では負傷者の治療を行い、
仙台で降伏後は一時投獄されていますが、
出獄後に早稲田で蘭疇院を設立。
山縣有朋らの薦めで兵部省に出仕し、
帝国陸軍初代軍医総監となっています。
明治40年に死去。

林董は泰然の五男で、
御典医林洞海の養子となり、
泰然と共に横浜に移住し、
ヘボン塾で英語を学びました。
慶応2年に幕費で英国留学していますが、
帰国後に幕府は崩壊してしまった為、
縁戚の榎本武揚に従って箱館戦争に参加。
戦後は良順の紹介で陸奥宗光の既知を得て、
陸奥の神奈川県知事赴任に伴い県庁へ出仕。
後に岩倉使節団に加わって再び留学します。
帰国後は工部大学校設立に参加。
以後は工部省に出仕しており、
後に逓信省大書記官として就任。
明治24年には外務省へ移り、
外務大臣榎本武揚や陸奥宗光の外交を支え、
日清戦争後に特命全権公使として赴任。
ロシア公使イギリス公使を歴任しました。
日露戦争後、初代駐英大使に任命され、
第二次日英同盟を締結。
西園寺内閣では外務大臣や逓信大臣を務め、
大正2年に死去しています。


佐藤尚中先生」レリーフ。
佐藤尚中は泰然の養嫡子で、
松本良順や林董ら優秀な実子かいる中、
佐藤家を継いで二代目主宰となります。
小見川藩藩医山口甫僊の次男に生まれ、
鳥羽藩侍医であった安藤文沢に師事し、
文沢の勧めで泰然の和田塾に入門。
その才能を認められて養嫡子となりました。
また長崎に遊学してポンぺに学んでいます。
慶応3年には佐倉養生所を開設しますが、
戊辰戦争のあおりで閉鎖。
維新後は新政府の要請で大学東校に出仕し、
初代校長となった他に、
明治天皇侍医長にもなっています。
明治8年、順天堂医院を開設。
初代院長に就任しました。
明治15年に死去。


佐藤進先生(右)」、
佐藤志津先生(左)」レリーフ。
佐藤進は尚中の養嗣子。
佐倉順天堂で蘭医学を学び、
尚中の娘志津と結婚して佐藤家を継ぎ、
戊辰戦争では新政府軍の軍医として従軍し、
白河三春野戦病院頭取を努めています。
戦後は海外渡航免状第1号を得て留学し、
ベルリン大学医学部に入学。
アジア人初の医学士学位を取得して、
帰国後に順天堂医院で働きました。
西南戦争では軍医監に任命され、
陸軍臨時病院長として大阪に出張。
明治12年に陸軍本病院長に就任しますが、
翌年には順天堂医院に復帰しています。
日清、日露戦争でも軍医監に任命され、
その都度出張。大正10年に死去しました。

佐藤志津は尚中の娘。
順天堂の塾生高和東之助(進)を婿に迎え、
治療や軍医で多忙であった夫を支えました。
婦人会の活動に参加し、
高橋瑞子吉岡弥生を支援。
横井玉子からの支援要請にも応じて、
私立女子美術学校に出資し、
2代目校長にも就任しています。
大正6年に死去。
3代目校長には夫の進が就任しました。


記念館には佐倉順天堂の沿革や、
手術道具が展示されています。
当時は現在の8倍の広さがあったという。
面白いのは治療の料金表で、
切り傷治療から帝王切開まで、
色々な治療の料金が書かれています。
他に失敗しても恨まないという証文もあり、
なかなか楽しんで拝見できました。


順天堂病院」。
隣には順天堂医院が現在も続いています。
尚中が政府の要請で東京に移り住んだ後も、
養子の佐藤舜海が佐倉順天堂を継ぎ、
順天堂医院として7代続いているという。
これは素晴らしい事ですね。

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 佐倉養生所があった場所。
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