会津戦争の終結後、
謹慎を経て会津松平家の復興が許され、
陸奥国東部に立藩したのが斗南藩。
立藩にあたり旧領の猪苗代と、
旧盛岡領の選択を許され、
家臣らの激論の末に後者に決定されました。
同じ3万石であるならば、
土地が広い方が開墾できるという事と、
海に面して貿易に有利な事が、
決定に考慮されたようです。
藩名を「北斗以南皆帝州」にちなみ、
斗南藩と命名していますが、
「南(薩長)と斗(戦う)」
という意味もあったという説も・・。
むつ市大湊に藩士の上陸地の碑があります。
「斗南藩士上陸之地」。
会津若松市の慶山石で造られた記念碑。
新潟より海路で上陸したと記されますが、
移住第一陣は明治3年4月に八戸に上陸。
同年10月の家族移住は陸路だったようで、
所領決定後の領内調査の際に、
上陸した場所ということでしょう。
大湊は良港で北前船の寄港地として栄え、
藩庁に適した場所だった事でしょう。
また領地となる下北半島の山々は、
日本三大美林「青森ヒバ」で覆われ、
無数の良木が生い茂っていましたが、
斗南藩はその特色を生かせませんでした。
米経済に馴れた旧会津藩は、
領内の開墾に力を注ぎますが、
極寒の下北半島は稲作に適しません。
大湊に寄港する北前船等を相手に商売をし、
ヒバの巨木を伐採して良木を売れば、
短時間で財政は潤った可能性はあります。
むつ運動公園の東側にある呑香稲荷神社へ。
陸軍大将柴五郎の住んでいた場所。
柴は義和団の乱の北京籠城戦で活躍し、
日本を含む8ヶ国が北京に籠城した際、
英、仏、中国語等を話せる柴は、
各国をまとめて約2ヶ月に及ぶ籠城戦で、
勝利を齎しました。
この活躍で各国の称賛を浴び、
「リュウトナンコロネル・シバ(柴中佐)」
の名は世界で知られるようになったという。
柴は下関要塞司令官にも任命されています。
細道に入って少し進むと、
赤い鳥居が見えます。
「呑香稲荷神社」。
移住したばかりの柴家は、
この神社で雨露をしのぎました。
俵やムシロにくるまって、
眠れぬ夜を過ごしたとされます。
「斗南藩柴五郎一家居住跡」。
呑香稲荷神社で越冬した一家は、
ここに住居を建てたようです。
父の佐多蔵は、
「ここは戦場なるぞ
会津の国辱雪ぐまでは
戦場なるぞ」と言ったとか。
案内板には、
「斗南士族の胸中には
「まこと流罪に他ならず、
挙藩流罪という史上かつてなき
極刑にあらざるか」という
憎悪と怨念が残るのみであった」
と書かれていますが、
ここを選んだのは会津藩の重臣達で、
それを恨むのは筋違いな気もします。
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