毛利家といえば安芸毛利家が有名ですが、
佐伯藩の藩主家も毛利家です。
長州藩の安芸毛利家とは血縁はありませんが、
藩祖毛利高政が毛利姓を名乗ったのは、
長州毛利家との関係からでした。
備中高松城攻略中に本能寺の変の報が伝えられ、
秀吉は急遽毛利家との和睦を決意します。
和睦条件のひとつとして人質交換が行われ、
秀吉側の人質として選ばれたのが、
当初森友重と称した藩祖高政でした。
友重は兄森重政と共に毛利家に送られますが、
毛利輝元に気に入られたようで、
後に毛利家が秀吉の傘下となった際に、
その縁で輝元から毛利姓を与えられ、
秀吉の許しを得て毛利を名乗ったという。
※兄の重政も晩年毛利姓に改姓。
その後は賤ヶ岳の戦いや九州攻めで活躍し、
日隈城主となって2万石を与えられ、
小田原攻め、文禄の役、慶長の役にも参加。
関ヶ原の戦いでは西軍として参加しますが、
藤堂高虎の執り成しや親族の活躍が考慮され、
改易も減封もされませんでした。
後に佐伯藩2万石に移封となって、
以後12代が佐伯藩主として続いています。
江戸時代の佐伯城。
築城には安土城の縄張りを担当した市田祐定、
姫路城石垣を指揮した羽山勘左衛門が携わり、
6年の歳月を掛けて完成しています。
しかしその11年後に二ノ丸から出火して、
山頂の天守や本丸御殿が全焼。
山頂を放棄して山麓に三ノ丸御殿を建設します。
江戸時代中期には6代藩主毛利高慶によって、
山頂部が創建当時に再建されました。
※天守は除く。
6代藩主高慶は佐伯藩中興の祖とされ、
産業振興、災害対策などを行い、
数々の藩政改革を成功させています。
8代藩主毛利高標も名君をされ、
財政再建、藩政改革の他に、
藩校四教堂を創設しています。
元々佐伯は起伏に富んで耕地が少なく、
田畑などの農業収入が少なかったようで、
[佐伯の殿様、浦でもつ]と謳われ、
藩財政は漁業や貿易、林業で賄っていました。
こういう特殊な領地では、
行政の腕が試されるのでしょうね。
「三府御門」。
佐伯市歴史資料館前にある薬医門で、
糾府・勘定府・米金府を司る三府役所の正門。
三府役所は、明治以降毛利家の邸宅となり、
警露館と呼ばれました。
「藩校四教堂正門」。
三ノ丸櫓門へ続く内馬場通り沿いには、
藩校四教堂の正門が移築されています。
名称は[礼記]にある詩・書・礼・楽の四教で、
学問、徳行、忠実、誠信の4つともされ、
藩校の基本理念とされました。
「三ノ丸櫓門」。
内馬場通りの先に三ノ丸櫓門は現存遺構。
前面の敷石が斜面となっており、
駕籠に乗ったまま昇り降りが可能。
大分県には城持ちの藩が沢山ありましたが、
櫓門の現存遺構は唯一ここだけのようです。
「佐伯文化会館」。
三ノ丸櫓門をくぐった先にある佐伯文化会館。
三ノ丸御殿のあった場所に建てられています。
「独歩の道」。
佐伯城に登城するには、3つの道があります。
本来の登城路であった[登城の道]。
涼み小屋のあった翠明台を通る[翠明の道]。
そして比較的緩やかで登りやすく、
登った所に独歩の碑がある[独歩の道]。
今回は家族連れなので独歩の道を選択しました。
みよちゃんも歩いて登ります。
4歳のみよちゃんには大変な道でしたが、
頑張って最後まで登りました。
「豊後佐伯城址」碑。
石垣まで登ったところにある石碑。
まだ新しいものです。
「独歩碑」。
本丸外曲輪の東端にある国木田独歩の石碑。
佐伯藩出身の矢野龍渓の推薦で、
佐伯にあった私立学校[鶴谷学館]で、
英語と数学の教師として赴任した独歩は、
約1年間佐伯で暮らしました。
佐伯城のある城山(八幡山)は、
佐伯時代の独歩が最も愛した山で、
「この山なくば余には殆んど佐伯なきなり」
と記しています。
独歩碑のあるあたりから市街を望む。
映画[釣りバカ日誌19]で、
浜ちゃんがここから佐伯湾を望んだらしい。
※観ていません。
本丸への石段。
「本丸跡」。
本丸には御殿のようなものが建てられておらず、
天守が真ん中に建てられていたのみ。
大きさから察するに小さな天守だったようです。
天守台には祠のようなものがありました。
「北ノ丸跡」。
本丸の裏側(市街から見て)にある北ノ丸跡。
「二ノ丸跡」。
左側の石垣下は[登城の道]。
石垣上には多聞櫓が築かれていたようです。
階段の上には城門があったようですが、
ここが佐伯城の山頂部の正門だったはずですが、
そこまで大きなものではありませんでした。
「西ノ丸跡」。
二ノ丸から西ノ丸へ細長く伸びています、
戦時中は高射砲が置かれていたようで、
それらしき穴が残っていました。
幕末の佐伯藩ですが、
11代藩主毛利高泰による財政再建が進められ、
殖産興業の推進、特産品の専売制が行われて、
軍政の洋式化や大砲鋳造も行われています。
跡を継いだ12代藩主毛利高謙は、
先代と同様に軍政や海防の強化を行い、
朝廷とも気脈を通じる尊皇派の藩主でした。
尊皇派ながら長州藩との関連は見当らず。
同姓だけに距離を置いたのかもしれませんね。
【佐伯藩】
藩庁:佐伯城
藩主家:毛利(森)家
分類:2万石、外様大名
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