大分県竹田市 岡城跡②

前回からの続き。
/②


三之丸跡」。
ここからが篭城用の空間となっており、
本来の山城といったところ。
広大な西之丸に比べるとかなり狭い。


蕃山先生頌徳碑」。
江戸時代初期の学者熊沢蕃山の碑。
蕃山は浪人の子として生まれましたが、
陽明学を学んで岡山藩に召抱えられ、
全国に先駆けた藩校由学館に携わります。
農政策に従事し災害軽減に貢献しますが、
藩内勢力争いの敗れて岡山藩を去りました。
その後は京都で私塾を開いていましたが、
名声を聞いた3代中川久清から招聘を受け、
竹田の土木作業の指導を行っています。
この碑は蕃山の功績を称えたもの。


小河一敏翁之碑」。
岡藩の尊攘派藩士小河一敏の顕彰碑。
真木和泉宮部鼎蔵岩倉具視らと交友し、
尊皇攘夷運動に邁進しますが、
12代藩主中川久昭が佐幕派であった為、
幽閉されるなどの弾圧を受けています。
維新後は太政官に出仕しており、
参与大阪府判事堺県知事などを歴任。


本丸石垣」。
三之丸跡からの本丸石垣の眺め。
本丸は三之丸から攻撃可能ですが、
ここまで攻められたら既にアウトですね。


空井戸」。
二之丸跡にある井戸跡
江戸期も空井戸だったようで、
使用されていなかったようですが、
大坂城から落ち延びた豊臣方の財宝が、
隠してあるという噂があり、
10代中川久貴が調査を行っています。
井戸の中に入って調査する者を募集し、
百姓の順次郎という者が選出。
順次郎は藩主や重臣らが見守る中、
丈夫な縄を縛ってこの井戸を降り、
灯火を点けて探索しました。
ですが何も見つからずに終了し、
順次郎は褒美を貰って帰りましたが、
数日後に不可解な死を遂げています。
実は何らかのお宝が発見され、
口封じで殺されたとも云われ、
後に再度調査が行われた際、
横穴が発見されたようで、
そこに観音像が安置されていたという。


滝廉太郎像」。
二之丸跡のある滝廉太郎の像。
代表作である[荒城の月]は、
岡城をイメージして作曲されたものとされ、
それにちなんで設置されたもの。


本丸跡」。
三之丸跡、二之丸跡と同様の広さ。
天守の役割を果たした三層櫓と、
二層櫓金倉が建てられていたようです。


岡城址」碑。
岡城は実際に篭城戦を経験した城。
大友家家臣志賀親次は僅か1000人で籠城し、
島津義弘の大軍3万を撃退しました。
この戦いで岡城と親次の名声は高まり、
島津勢に楠木正成の再来と評されています。
但しその際の本丸はここではありません。


岡城天満社」。
志賀親次が岡城の城主だった頃は、
この本丸跡あたりは城ではなく、
天神山と呼ばれてが祀られていたという。
中川家が岡城の城主となってから、
天神山が削られて本丸とされ、
そこにあった祠を城の守護として祀り、
本丸に社殿を建てています。
以降は代々祀られてきましたが、
廃藩置県後は村社として城下に遷座。
後に岡城跡が国指定史跡になった事や、
当時の宮司の夢にお告げにより、
戻されて社殿が建てられたようです。


天守台」。
天守である三層櫓があった場所ですが、
その台は低かったようです。


東側への通路。
志賀家時代の岡城の本丸があった東側へは、
この本丸脇の道を通らないと行けません。
道はそこまで狭いわけではありませんが、
足を踏み外したら崖から真っ逆さま。


廟所跡」。
本来の岡城の本丸があった場所で、
歴代藩主を祀る廟所がありましたが、
廃藩置県後に城下へと遷座されて、
現在の中川神社となっています。


さらに石垣が伸びて[下原門跡]に続く。
下原門は志賀家時代の大手門で、
中川家時代は搦手門となっています。


城から望む白滝川
崖沿いには武家屋敷が並んでいたようで、
下側は足軽、上側は重臣となっていました。


三之丸跡の高石垣
岡城跡といえばこの風景でしょう。
先程の西中仕切門跡からの景色ですが、
この風景が[ザ・岡城]って感じですので、
帰る前にもう一度写真に収めておきます。


岡城跡を散策するゆきちゃん
広いので乳児でも安心(?)です。
ほとんどフラットと言っても良いほどで、
2歳のゆきちゃんも結構歩いていました。
もちろん石垣沿いは落ちたら死にますので、
細心の注意を払わねばなりませんが、
広いスペースが豊富にあるので、
子供が走り回っても安心。
これが山城にして藩庁たる所以でしょう。

三木城の城主であった中川秀成は、
豊臣秀吉によって岡城に移封されますが、
関ヶ原の戦い東軍に与した為、
その所領を安堵されており、
豊後周辺7万石で岡藩を立藩します。
前城主がキリシタン大名だった事と、
城下の竹田も大布教地であったことから、
隠れキリシタンが潜伏していた筈ですが、
これといった弾圧事件は起きていません。
※記事はこちら
岡藩は元々尊攘派家臣の多い藩でしたが、
幕末の藩主中川久昭は佐幕を旨として、
小河一敏ら尊攘派を一掃。
これによって岡藩は佐幕藩となりますが、
幕末の動乱を傍観して過ごしました。
戊辰戦争でも僅かな兵員しか送らず、
新政府からは叱咤されていますが、
大火風雨で財政が困窮しており、
送りたくても送れなかったかもしれません。

岡城は[King of 山城]といった規模。
三大山城五大山城の選には漏れますが、
そんな城にも勝るとも劣らない城でした。
いや三大や五大の上だからキングなのかも?
とにかく一度は行くべき城でしょう。

【岡藩】
藩庁:岡城
藩主家:中川家
分類:7万石、外様大名

/②

■関連記事■
大分県日出町 龍泉寺/瀧廉太郎墓所
 名曲「荒城の月」は岡城がモデル。
大分県竹田市 謎の岡藩城下町
 岡城下町には沢山の切支丹の痕跡が・・。
三重県津市 津城跡
 幕末の藩主中川久昭は津藩からの養子 。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です