長州藩は現在の山口県が領地とされますが、
正確には支藩、孫藩の領地を含めています。
下関市の長府藩と清末藩。
周南市周辺の徳山藩。
岩国市周辺の岩国藩。
幕長戦争に勝利した要因の一つに、
本藩、支藩、孫藩が一致団結し、
凶事にあたった事が挙げられます。
今回紹介する清末藩は1万石の小藩ながら、
8代藩主毛利元純は宗家の長州藩を補佐し、
清末藩兵は大村益次郎と共に石州戦争に従軍。
石州戦争に大きく貢献しています。
「清末藩邸跡」。
清末藩は長府藩の支藩にあたり、
長州藩から見れば孫藩です。
孫藩という言葉は清末藩独自のもので、
陣屋跡は現在東部中学校となっています。
清末にある「孝行塚」。
孝行者であっただけで碑が建っています。
他になにかあったわけではありません。
碑文の概要は、
「お政は清末の角屋助三郎の娘に生まれ、
幼くして父を失い母だけと暮らしていた。
非常に孝行で結婚後も母や夫によく仕え、
殿様から度々褒められていた。
明治4年5月1日、46歳で病死。
その生前の行為を称える者が多く、
募金してこの碑を建てた。
これで政の孝行が忘れられなくなるだろう」
これだけ・・・。
孝行であっただけで石碑が建つって、
どんだけ凄い孝行者だったんでしょ?
たぶん人柄も良かったんでしょうね。
ここで見るべきは、
「殿様から度々褒められていた」という事。
当時の殿様は8代藩主毛利元純のはず。
小藩とはいえ毛利家の殿様が、
町人レベルの孝行を褒めるという事実。
なかなかの仁君ではないでしょうか?
清末藩の守護神[清末八幡宮]。
安政4年に元純により現在の社域に整備。
珍しいのは瓦が石州瓦なところ。
山陰ではよく見かける色の瓦ですが、
なんで石州瓦なんでしょうね。
石州戦争と関係があるのでしょうか??
もしかして戦利品??
隣接する[清末護国神社]。
元々は歴代藩主を祀った神社で、
当時は清栄神社と称されていましたが、
昭和30年に清末地区の戦没者を合杷して、
護国神社に改称されました。
ここも石州瓦。
境内の前は[清末公園]となっています。
山であった場所を平地にならして、
練兵場として使用した場所。
清末藩は育英隊を結成して石州戦争を戦い、
戦後は浜田藩領に駐屯しています。
少し廻って見えてきたのが8代元純の事。
庶民の孝行にまで目が届いていた件。
神社仏閣などを整備していた件。
また[清末の本読み]と言われるほど、
学問を奨励していたようです。
小藩ながら名君であった模様。
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