吉田松陰は海防視察の為に、
北浦の巡視を行っていますが、
その様子は廻浦紀略で知る事ができます。
吉田松陰の北浦巡視①
これは萩から赤間関に至る巡視の日記ですが、
その前に萩以北の海岸線も巡視していました。
しかしこれについて書かれた日記等は無く、
僅かに代官の簡単な報告書が残るのみです。
嘉永2年。
長州藩は海防の重要性を認識し、
領内の外海に接する海岸線の調査を、
道家龍左衛門、多田藤五郎等に命じます。
松陰も異賊防禦策や水陸戦略を、
藩政府に上書していた事もあり、
※当時は吉田大次郎。ここでは松陰に統一。
この一行に加えられています。
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嘉永2年6月27日。
一行は阿武郡須佐浦に到着。
※須佐は益田家の所領。
6月28日~7月1日。
この間、江崎浦、田萬村を巡視。
※江崎は西堂寺の六角堂が有名。
田萬は石見国との国境沿いの村。
キャンプ場や温泉施設があります。
6月27日から7月1日の行程。
何日にどこ巡視したかは不明です。
7月2日。
風が悪く船が出せないので陸路で海辺を通り、
宇田の遠見番所、日名古浦を巡検し、
萩に帰還。
※宇田は現在も漁村の風情が残っています。
日名古は名古の事で道の駅発祥地のひとつ。
(道の駅は全国12ヶ所で同時に実験運用)
7月2日の行程。
以上が廻浦紀略以前の行程ですが、
巡視した場所がわかっているだけで、
それ以外は全くわかりませんし、
巡視一行が廻浦紀略と同じかも不明。
※廻浦紀略のメンバーは、
道家龍左衛門、多田藤五郎、飯田猪之助、
森重政之進、大西喜太郎、郡司覺之進、
そして松陰の7名。
それほど細かく巡視していないところなど、
廻浦紀略に似た感じもしますね。
■関連記事■
・吉田松陰の北浦巡視①
この後の松陰一行の行程。
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嘉永4年の東北遊学の行程。
・長州藩の異国船討ち払い
江戸中期の須佐での外国船討払事件。