山口県大島郡 世良修蔵招魂碑

世良修蔵東北諸藩に不遜な態度を取り、
奥州皆敵」と記された密書を書いた為、
これに激怒した仙台藩士に殺害されました。
この事が奥羽越列藩同盟成立に繋がり、
戊辰戦争への引き金となった訳で、
世良は鬼畜のような扱いを受けています。

しかし彼はどちらかといえば学者肌で、
以前に粗暴な振る舞いがあった記録は無い。
何故奥羽鎮撫総督府下参謀となった際に、
不遜な態度を取ったのかは謎ですが、
東北諸藩を怒らせた事に間違いはない。

世良は大島椋野村の庄屋の家に生まれ、
同村の大呑塾、海防僧月性清狂草堂
さらに明倫館安井息軒三計塾で学び、
寄組浦靱負開設の郷校克己堂の講師を務め、
後に浦家に仕官しています。
同門の赤禰武人の招聘で奇兵隊に入隊。
書記等を務めた後に大島で真武隊を再興し、
その軍監に就任しています。
※後に第二奇兵隊に改称。
 初代総督は白井小助
後に赤禰が奇兵隊を出奔した為、
赤禰と親しかった事から嫌疑を受けて謹慎。
脱走した隊士らが倉敷浅尾騒動を起こすと、
謹慎を解かれて隊内の安定に尽くし、
浦家の重臣世良家の家督を継ぎました。

大島戦争では第二奇兵隊を率い大島を奪還。
一時軍部を離れて外交活動に奔走しますが、
鳥羽伏見の戦いで軍に復帰して戦功を挙げ、
その後、奥羽鎮撫総督府下参謀に就任し、
東北諸藩の恨みを一身に買う事になります。

その世良の招魂碑が、
郷里久保田山に建てられています。

茂兵衛堂」。
世良の招魂碑へ訪問するには、
この茂兵衛堂を目指すのか良いようです。
中務茂兵衛四国八十八箇所を280回巡拝し、
生き仏と崇められた人物。
10歳年上の世良と従兄弟の関係でしたが、
優秀な世良とは対照的に遊郭に入り浸り、
親から勘当されて故郷を捨て、
その後は遍路に生涯を費やしました。
お堂はその偉業を称えて建てられたもの。

茂兵衛堂の近くに大きな看板があります。

世良修蔵招魂碑の説明板」。
大変立派な説明板。
碑文の内容が詳しく記載されていました。
周防大島町教育委員会は良い仕事をします。
各所に取って付けたような説明板が多い中、
こういうのはとても嬉しいですね。

説明板の横の階段より上へ。

天地同久(世良修蔵招魂碑)」。
世良家を継いだ世良徳壽が建立した碑で、
碑の篆額は山田顕義、撰文は加藤煕です。
この加藤煕は誰かと思ったら、
笠間藩の儒者で試撃行高杉晋作が面会し、
後に明倫館教授となった加藤有隣の事。
碑文には「堂々たる体格を持ち、眉秀で、
黒々とした頬髯を蓄えていた。

性格は素朴で実に高遠な精神の持主であり、
めったなことで笑うことはなかった

とあります。
碑文は上げて書かれていると思いますが、
粗暴な面があったならば「勇猛」など、
そういう荒々しいの言葉が入るはず。
黒々とした頬髯を蓄えていたとは驚き。
イメージを改めなければ・・。

碑の左右には世良家の墓があり、
碑を建立した世良徳壽のものもありました。

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