光市 第二奇兵隊石城山本陣跡

高杉晋作奇兵隊を結成した事をきっかけに、
長州藩内で多くの諸隊が結成され、
周防東部においても「真武隊」が結成されました。
※はじめ秋良雄太郎らが大島で結成。
 後に白井小助世良修蔵らが再興。

はじめ専光寺に本陣をおいていましたが、
隊士が300人を超えた為に普賢寺に移転し、
隊名を「南奇兵隊」に改称。
その後、さらに隊士が400人を超えた為、
石城山神護寺に本陣を移しています。


神護寺仁王門(本陣正門)」。
南奇兵隊が神護寺に本陣を移したすぐ後、
長州藩は諸隊の整備統合を行い、
藩の正式な部隊となって「第二奇兵隊」と改称され、
奇兵隊総督山内梅三郎が総督を兼務しています。
神護寺は第二奇兵隊の要塞となり、
この仁王門は本陣の正門となりました。
隊士2名が交代で警衛を行い、
衛兵所を作るために仁王像を引きずり出したという。


仁王門の先には道が続きます。
本来は神護寺の参道でした。


石城神社」。
道を行った先には石城神社があります。
飛鳥時代の敏達天皇3年に創建されたという。
大内家や毛利家にの庇護を受けていた模様で、
現在の拝殿は毛利敬親の寄進によるもの。


さらに先は開けた場所となっています。


第二奇兵隊志士を懐う碑」。
岸信介の七言絶句。
昭和19年に岸は商工大臣を辞して帰郷。
石城山に登った際に漢詩を作ったという。
  懐第二奇兵隊志士
 周東健児起血盟回天偉
 業破雲成千古秘謎尚可
 解誰承遺烈答 聖明
  甲辰春 岸信介

訳:周東の健児が立ち上がり固い約束をした。
  維新の偉業は暗雲を打ち破り達成された。
  古くから秘められている謎は
  更に解明しなければならない。
  先人の偉業を引き継いで聖明にお答えしよう。



明治維新百年記念樹」碑。
佐藤栄作の題字。
先の岸信介と共に元内閣総理大臣です。


第二奇兵隊本陣跡」「神護寺跡」。
神護寺は石城神社の別当寺として創建された寺。
第二奇兵隊はこの本堂を本陣とし、
高札を建てて庶民の入山を禁止しました。
神護寺の庫裏や土蔵などは兵舎などの施設となり、
神護寺自体が要塞化されました。

仁王門まで戻ってTVの電波塔へ。

火薬庫跡」。
TVの電波塔が建てられている場所は、
火薬庫が置かれました。
事故を避ける為にちょっと遠くに置かれました。

もう一度戻って駐車場の奥へ。

練兵場跡」。
畑であった場所のようで、転陣後に整地され、
銃陣射撃地雷火騎兵の訓練が行われました。
昭和初期に斜面が削られて拡張され、
当時よりも広くなっているとのこと。
それでもそれほど広くないですね。

石城山を下山し光市街へ。

専光寺」。
真武隊が本陣とした寺院。
たしかに300人の収容は無理っぽいです。


普賢寺」。
専光寺より転陣した普賢寺。
隣の普賢堂の敷地も併せれば結構な広さです。
石城山への転陣は手狭とかではなく。
射撃訓練などを本格的に行う為でしょう。

慶応2年4月。隊士約100名が立石孫一郎に扇動され、
脱走して倉敷代官所浅尾陣屋を襲撃しますが、
幕府の追討軍によって壊走。
逃げ帰った隊士は捕らえられて斬首されています。
この事件は立石に扇動されたというのが原因ですが、
藩の正規部隊となった際に定員100名と定められ、
それを遥かに超える人員を養うために交代制を敷き、
それでも資金の不足で隊士らは不満を抱えており、
それが脱走騒動の一因になったようです。

その後、第二奇兵隊は石城山の麓の専福寺に転陣し、
幕長戦争を迎えています。

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