倉敷に出張に行ってきました。
思ったより早く仕事が終わったので、
倉敷美観地区に行ってみます。
江戸時代、倉敷は幕府直轄地である「天領」で、
物流の拠点として非常に栄えていました。
現在は倉敷市の美観地区景観条例に基づいて、
当時の街並みが保存され、
天領時代の町並みをよく残しています。
「倉敷川畔」の街並み。
平日にもかかわらず観光客がたくさんいました。
学生達はすでに休みだからでしょうね。
意外な事(?)に女子旅を多く見かけました。
さて幕末ですが、慶応2年4月10日、
第二奇兵隊を脱走した約100名が、
倉敷代官所を襲った倉敷騒動を起こしています。
この事件は、その後の浅尾陣屋襲撃と合わせて、
「倉敷浅尾騒動」と呼ばれています。
同じ江戸時代の街並みでも城下町の武家屋敷と違い、
商家が並ぶその町並みは、一味違った風情が感じられます。
第二奇兵隊を脱走した約100名は、
立石孫一郎をリーダーとして倉敷代官所を襲います。
なぜ脱走した約100名が、倉敷代官所を襲ったのか?
実はリーダーの立石孫一郎が倉敷の出で、
ここで起こった下津井屋事件で代官所に恨みを持ち、
私怨で倉敷代官所を選んだという説もありますが、
真相はわかりません。
※下津井屋の不正事件に絡み、下津井屋への放火と、
主人親子のが殺害された事件。立石が下手人として疑われ出奔。
維新後の倉敷代官所跡は、
明治22年に紡績会社「倉敷紡績」の工場が建てられ、
現在はその跡地が利用されて、
「倉敷アイビースクエア」という複合観光施設になっています。
「天領倉敷代官所跡」の碑。
「倉敷アイビースクエア」内にある代官所跡の石碑。
「代官所井戸」。
紡績工場として開発されていますので、
代官所当時の面影はほとんどない中、
この井戸は代官所当時からありました。
「代官所内濠遺構」。
これも代官所当時のもので、代官所の内堀として掘られたもの。
代官所を襲撃した約100名の元第二奇兵隊士らは、
目的である代官の誅殺を目指しましたが代官は不在。
この襲撃に対し代官所の幕臣達は逃げ出しましたが、
わずかに応戦した9名が討死しています。
「観龍寺」。
代官所を襲撃した元第二奇兵隊士らは、
倉敷村の鎮守である観龍寺を本営とします。
代官所での防戦は不利とみて、
小高い山にあったこの寺で次の行動に備えたのでしょう。
「観龍寺山門」。
ここに居たのは結局1晩だけで、
兵糧と軍資金を調達した元第二奇兵隊士らは、
すぐに浅尾陣屋に向かいました。
山門の左手鴨居門には、
元第二奇兵隊士らが付けた槍の傷跡が残されています。
「大橋家住宅」。
国の重要文化財に指定されているこの大橋家住宅は、
町年寄務める大橋平右衛門の住宅で、
立石は大橋の娘と結婚して分家を興し、
西大橋家の大橋敬之助と名乗っていました。
西大橋家はこの大橋家住宅の西にあったようで、
現在はマンションが建っています。
下津井屋との因縁から倉敷に居辛くなり出奔。
その置き土産として下津井屋に報復したのでしょうか?
その後、大阪を経て津山にいる母方の親戚立石家を頼り、
立石家が毛利に仕えていた頃の感状と拝領した刀を譲り受け、
立石孫一郎と改名して長州に向かいました。
倉敷を出た元第二奇兵隊士らは、浅尾藩に向かいます。
そこで浅尾陣屋を襲撃。しかし幕府もようやく重い腰をあげ、
元第二奇兵隊士らは幕軍に攻撃され壊滅。
長州に逃げ帰りますが、立石をはじめ隊士らの多くが捕えられ、
処刑されています。
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脱退隊士らは浅尾陣屋も襲いました。
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